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郷土の先人・先覚344 絵筆を生涯捨てず

佐藤梅宇(生年不詳-安政4)

佐藤梅宇は雅号で通称・源内、名は克敬、字(あざな)は子幹である。幼少のころから絵を好み、長じて向学の念抑えがたく、江戸に上り谷文晁の門に入って日夜絵の道に励んだ結果、師の文晁も梅宇の将来に大きな期待をかけたが、病弱だった故郷の母が倒れたことを気遣い、絵にかけた多感な青春の夢を捨てて郷里に帰った。その後、庄内藩に使え、給人組外(くみはずれ)となっている。

天保12(1841)年、梅宇は島役人を命ぜられ、大沼惣左衛門と共に、恒例の五節句祝肴献上に仕立てた帰り船で加茂港から乗船した。だが、船が沖合に進むにつれ本土が次第に視野から遠ざかってゆく孤独感と、初めて渡る島の生活の不安などが重なり合って、言い知れぬ寂寞(せきばく)な気持ちにかられたであろうと、島の郷土史家は語っている。

藩政時代遠く離れた日本海の荒波の中に位置した飛島には、庄内藩から島役人を気候のよい4月ごろから約半年間派遣して島の治政に当たらせた。その主な任務は次の通り。

一、島の景況を郡代に報告

二、幕府や藩の布令伝達

三、澗役銭及び塩口銭の取り立て

四、島内の鉄砲、人別、宗門改め

五、年貢するめの取り立て

六、内地へ旅立する際の「沖の口通判」の発行

七、この他

これを「飛島御用留帳」に記載しておき、一括して「郡代所」に報告することが島役人の仕事である。だが、島役人が引きあげた冬期間は島の肝煎(きもいり)が代役を務めたという。

赴任後の梅宇は、かつて味わった郷愁は微塵もなく職務に精励、また純朴な島民の中に溶け込み島内の治政に努力した。

やがて彼の目に浮かんだものは素晴らしい自然美で、画家の意欲が沸き上がり絵筆をとったという。特に花鳥人物が得意で「かんぞう」の花や、「だぶの木」の緑は梅宇の芸術欲を満たすに十分であったろう。在島中、島の風物、生活などを描いた作品が多数残っていると聞く。

雅号の由来は梅の花を好んだというので郷土史家・池田玄斎が名付けている。

ほかに琴も弾く優雅な人で、娘たちにも琴を教え島役人の肩書きを感じない温かい人であった。また、藩主・酒井忠発(さかい・ただあき)の前でも弾琴して信を得ている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1997年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤梅宇(さとう・ばいう)

生年不詳。飽海郡荒瀬郷の大庄屋・佐藤源内の子として誕生。9歳の時に父を失い、その後は母の手で育てられた。人一倍親孝行で評判であったという。長じて文晁の門に学ぶも母の病のため帰郷。庄内藩に仕え島役人となるが、学んだ絵筆は生涯持ち続けて「飛島図絵」など貴重な資料を残している。安政4(1857)年5月に死去した。

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