若くして江戸の東條一堂塾で儒学、それに医学も学んだ筒井明俊は、文明開化時代の先端を行く働きをした男である。
明治2年9月、明俊は江戸出身の医師・林量索や酒田の医師・須貝玄益らと相談して、酒田に病院を造るよう酒田県大参事・西岡周碩に願い出ている。その理由の一つに、古い体制を破るには病院建設が最適としている。
病院設立は実現しなかったが、従来からあった医会所の規模が拡張され、明俊が願っていた貧民への施薬も行われるようになった。
明治2年6月、西岡周碩が酒田町天正寺に初めて学校を設立した。学而館と名付けられ、明俊ら3人が教導として迎えられた。その開校式当日、明俊は論語学而章第一章を講義している。さらに学而館開校喜賦一首を呈した。学而館は翌年10月閉校となった。
明俊は明治3年7月、刑部省の刑部更生となり、裁判の仕事に携わった。同年12月に山形県庁に入り、8年に庶務課長兼学務課長となった。その前の6年12月、「各州を置き、議院を開くの議に付建議」を提出した。
明俊は建議の前文で、法則を立てることの大切さを主張した。それに続く百三十八条にも及ぶ見解の中で、市町村の統合合併の必要性や議員などの選挙についても触れている。(酒田地区医師会史)明俊の先見の明がうかがえる。
明治7年5月、山形市に山形県公立病院の済生館が創立された。これは病院であり、医学教育機関でもある。明俊は13年、山形県一等属衛生課長に任ぜられ、済生館館長も兼務した。同年7月に明俊は状況してオーストリア人ローレツを済生館の教頭に迎えた。
しかし、館長として経営に手腕を振るう明俊と、科学者としての立場を取るローレツとの間に亀裂が入ったようである。ローレツらの医員は医療機械や薬品などの充実を要求するのに対して、経営を主に考える明俊は予算内での収支を厳格にして、その要求に応じなかったからである(『山形市史資料』四十七号)。ローレツは15年7月に済生館を去り、明俊も同年8月には済生館を退職し、山形を去った。
明治22年東京在住者の島内同郷会が『維嶽雑誌』を発行した。当時、警視庁に勤務していた明俊も編纂委員として参加し、「論語知新」を載せている。さらに教育、ルソー、モンテスキューなどについても論じている。
官吏。酒田十王堂町の青雲寺修験筒井真文の子として天保8年に生まれる。酒田町医となり、戊辰戦争では酒田町兵の軍医として秋田方面に出動した。東村山郡長、判事、警視庁第四課長など歴任。明治26年10月死去した。