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郷土の先人・先覚35

池田 藤八郎

池田藤八郎氏の写真

政治家・池田藤八郎は文久2年12月23日、本間一族で山手の本間といわれた本間光貞の二男として、西荒瀬村酒田新田天王下(現・酒田市)で生まれ、辰三郎・光礼と称した。

長じて明治12年上京して同人社に入り、中村敬宇について漢学や英語を学んで帰酒、明治15年飽海郡中学校教員となっているが、明治18年には地主であり名家である本町の池田家の養子となって、藤八郎と改名した。24歳のときである。その後は政治家の道を歩んでいる。

明治22年酒田町会議員となっている。このころ世間を驚かせた相馬屋事件が起こった。これは同26年1月28日、貸座敷相馬屋で町の富豪達が宮中御宴をまねて行ったもので案内状には「今夕宮中風の大宴相催し候に付大礼服着用、相馬内裏へ参朝有之度……云々」とあるが、この事件に加わった17名の中には、富豪連や県会議員・大泉長次郎らとともに、町会議員池田藤八郎も加わっている。だがこの事件も証拠不十分のため不起訴で終わっている。

また、明治27年10月23日の庄内大地震のときは「救助米の炊き出しには旧藩主酒井忠篤、鶴岡の風間幸右衛門、酒田の本間光輝・松井権平・池田藤八郎らの尽力するところが大きかった」と、酒田市史(下巻)に出ている。

藤八郎はその後、4代目酒田町長となり、明治31年10月就任以来5期続けて当選し町政をつかさどっている。

酒田で電気事業が本格化したのは明治39年4月で、同年10月、新たに酒田町営電気事業が創設され、41年9月には日向村升田(現・八幡町)に町営電気第一発電所を創業。その年の11月3日(当時の天長節)に酒田町にはじめて点灯、文化の光に浴した。この町営電気の責任者が町長・池田藤八郎で、電気事業にかけた彼の手腕に負うところが多い。

ほかに幼児教育にも意を尽くし、青木遊戯園のあとに酒田幼稚園を設立し、大正6年寺町(現・酒田市寿町)の園舎に移転した。その他、築港、鉄道誘致、授産事業などに力を尽くしている。

やがて県会議員となり、次いで明治41年5月衆議院議員に選ばれたが、同44年50歳で亡くなり、酒田市寿町の本慶寺に葬られている。墓碑銘は犬養毅の書である。

昭和10年功績をたたえ、市役所前に建畠大夢作の立派な藤八郎の銅像が建立された。だが、第二次世界大戦中に金属回収の犠牲となって惜しくも撤去されている。

衆議員議員をした本間光義は実兄で、有恒会の総帥となった池田藤弥は実子である。

(筆者・荘司芳雄 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田 藤八郎 (いけだ・とうはちろう)

政治家。元衆議員議員・本間光義の実弟。明治18年に酒田本町の名家・池田家に養子入り。酒田町会議員、酒田町長、飽海郡会議員同議長を経て、県会議員へ。同41年に衆議員議員に選ばれ、憲政会、有恒会系の有力政治家として活躍し、在任中に死去した。その間に、出羽銀行の頭取、酒田奉公義会理事、酒田築港同盟会の役員をつとめた。また、酒田高等女学校の県移管、鉄道敷設、授産事業、町営電気事業、酒田幼稚園の設立などに貢献した。

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