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郷土の先人・先覚61

菅原兵治

菅原兵治氏の写真

敗戦日本の再建は、正しい教学に基づく青少年の人材育成がまず第1であるとして、故・酒井忠良氏らの強い要請によって、当時、郷里宮城県で病を養っていた菅原兵治先生が、鶴岡青竜寺川畔の清風庵に居を移したのは、昭和20年12月であった。

翌年4月、羽黒町松ケ岡に東北農家研究所を開設し、主として農村青年を対象に、師弟教学の塾式教育と、社会問題の調査研究を開始された。

塾生活は活気があり、規律があり、礼儀正しいものであった。日課は半日学科、半日仕事(田畑家畜)を原則とし、先生は論語・大学・孝経・古事記などを講じた。農学・書道・歴史・剣道などは別に権威者が来講した。

この制度は昭和47年まで継続したが、この間菅原先生の薫陶を受けた者は、全国に及び700人を数えるが、今この人々は家業を守り、あるいは行政に産業に、有名無名を問わず有力に活動している。

一方、先生の調査研究の成果は、県行政の参考とされたが、政府機関に送られて学校の米飯給食が急増したこともあった。鶴岡高専の誘致に尽力されたことなども、いまは知る人が少ないであろう。

昭和31年から興村夏期大学、37年からは東北企業体青年研修会、その後月例の亦楽会(えきらくかい)などを開催して、自ら人材の指導育成に当たれたことは、大方のまだ記憶に新しいところである。また、広く一般人の教養のテキストとして月刊「耕心」を発行し、毎回健筆を揮われたのは昭和27年からであった。

著書論文の類は枚挙にいとまないが、「農士道」「東洋治郷の研究」などは紙価を高めたものである。晩年の「我づくり入門」「大学味講」などは、社員研修のテキストにもされた。

菅原先生と庄内の因縁は、昭和8年までさかのぼるが、今は触れない。ただ先生は庄内藩校致道館以来の学風に深い理解を示し、伝統の藩学は旧来の特定の学派に属するものではなく、むしろ独特の「庄内学」と称すべきものとした。また庄内が西郷南洲の盛徳を「南洲翁遺訓」として出版したことは、「死に代えての出版」であったと評し、これらのことを著書を通じて広く天下に明らかにされたことは、庄内人として忘れてはならないことと思っている。

(筆者・地主正範 氏/1988年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

菅原 兵治 (すがわら・ひょうじ)

明治32年4月3日生まれ、宮城県加美郡宮崎村の出身。金鶏学院で陽明学者といわれた安岡正篤に師事して東洋哲学を修めた。長野県実業補修学校教員養成所の勤務を経て、昭和6年埼玉県菅谷に開設した日本農士学校の検校(校長)に迎えられ、農村の人材養成に尽力。

同20年鶴岡へ。東北農家研究所を開設して多数の人材を育成、40年黄綬褒章受章、54年宮崎町の名誉町民になった。54年12月15日死去、享年80歳。

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