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郷土の先人・先覚62

斎藤榮治

斎藤榮治氏の写真

ゲーテ学者・斎藤榮治を師として仰ぎ、敬愛して止まなかった「運河」同人のひとり坂井栄八郎氏の作成した詳細な「斎藤榮治先生年譜」がある。以下それを抄出する。

明治43年7月26日酒田市築後町(現・浜田一丁目)に生まれる。父・梅太郎、母・とめよ。
榮治先生は小学校に入っては抜群の学才を示し、常に首席総代であった。
 
大正12年4月酒田中学入学。中学も入学から修了まで首席。運動もよくし、野球部の投手として活躍。後年、東大教授時代に母校(現・酒田東高校)野球部にバッティング・シートを寄贈、同校野球部が甲子園大会に出場した時には寄付金集めに奔走した。
 
昭和2年4月山形高校入学。ドイツ文学専攻を決意。2年間を通じて首席であった。
 
昭和5年4月東京帝大独逸文学科入学。滝野川の荘内館に住み、授業には比較的真面目に出席、また木村博士が指導する独逸文学研究会に参加。
酒はこのころからかなりたしなみ、乱れない端正な飲み方も当時からのもののようである。
 
昭和8年3月東京帝大卒業。卒業論文はゲーテの「親和力」、大学院での研究テーマはトーマス・マンであったが、大学院時代は「新思潮」に拠って精力的に創作を発表。多数の随筆、評価、劇評あり。
 
昭和10年4月木村謹治教授著「和独大辞典」編纂助手。
 
昭和11年11月白崎永子と結婚。永子は父・重治、母・いち、父は外科医で酒田市内に白崎医院を開いていた。
 
昭和14年4月海軍教授、機械学校教官。舞鶴での生活はのびやかなものであった。
 
昭和21年12月一高教授。颯爽とした一高教授であった。執筆活動も盛んで「ヘルダーリンの手紙」「ライプツィヒ時代前後のゲーテ」「イタリアの旅へのゲーテ」などの論文を発表。「ゲーテーピラミッド」「詩と真実」などの翻訳、特にホーエンシュタインの「ゲーテ」はゲーテ学者としての斎藤先生の名を一挙に高らしめた。
 
昭和32年4月東大教授。論文「ヴィーラントとゲーテ」「メーリケとゲーテ」、翻訳ヒルティ「幸福論」「病める魂」、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」その他。
 
昭和46年3月停年退官。東大名誉教授。4月立教大学教授。論文「若きゲーテのライン旅行」「ゲーテのイタリアの旅」など。
 
昭和50年10月東京亀城会(酒中・東高同窓会)会長。
 
昭和51年4月立正大学教授。
 
昭和54年1月22日没68歳。
  
(筆者・成田晴夫 氏/1988年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 榮治 (さいとう・えいじ)

「年譜」にもあるように颯爽と、おしゃれでスマートな紳士であった。東北という土地柄からくるイメージはどこにもなかった。教室では大そう恐い先生だったが、教室を離れれば明るい笑顔の交際のよい人であった。その深奥には凛とした一線があって接する人に襟を正さしめるものがあった。 昭和28年7月、二男真木を失った。両親の眼前で喜々と遊ぶ11歳の少年はあっという間に鎌倉の魔の渕に奪い去られた。その先生の悲愁は生涯癒えることのない地獄であった。その祈りの訳業、カロッサ「若い日の変転」は真木の霊に献げられた。

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