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郷土の先人・先覚67・農業倉庫の建設など産業組合運動を推進

渋谷勇夫(明治30-昭和60年)

渋谷勇夫氏の写真

昭和初期、地主王国庄内の地に、地主勢力に対抗して産業組合運動が展開したが、その運動の先頭に立ったのが、旧新堀村の山木武夫と旧平田村の渋谷勇夫であった。

渋谷勇夫は、明治30年、北平田村久保田の耕作小地主、いわゆる旦那様層の家に生まれた。大正4年春に庄内農学校を卒業。農業に従事していたが、翌5年12月、飽海郡の推薦を受けて、上山の「山形県自治講習所」に第2回生として入所、6カ月間加藤完治の薫陶を受けた。山形県自治講習所は、大正4年、大正天皇即位の御大典事業として、山形県が農本主義的青年幹部養成のため、全国に先駆けて開設したものである。渋谷はここで、農本主義と農民救済の思想と実践について、加藤の徹底した感化を受けるとともに、同期生として東田川郡推薦で入所した山木武夫と兄弟以上の親交を深めることになった。渋谷のその後の人生は、この自治講習所時代の加藤の思想的影響によって決定されたといっていい。

渋谷は帰村後、農業に従事しながら、北平田村の青年団長、代用教員なども勤めたが、大正15年8月、請われて30歳の若さで同村の収入役に就任、北平田村運営の中枢部に入り込むことになる。この間山木とともにますます加藤完治への師事を深め、加藤のもっとも信頼する弟子として、大正14年には、両人は加藤の満州視察に同行している。

渋谷の産業組合への開眼は、すでに自治講習所時代になされていたが、さらに具体的には、大正13年の有馬頼寧を中心とした飽海郡の産業組合講習会に参加して、産組運動こそ農民救済と農民自立化の方法であり、加藤の農本主義を実践化する方法であることを自覚化してゆく。

しかし、当時庄内では、巨大地主が農家経済を完全に支配していた。したがって農民の自立を目指す産組運動の展開は、巨大地主に対する戦いを意味しており、その運動家は「アカ」と呼ばれるような状況にあった。

こうした中で、渋谷は昭和2年、北平田村信用組合を設立し、庄内の産組運動の第一歩を踏み出した。しかし、その経営は困難を極めた。だが渋谷は、村当局を後ろ盾とし、また区長や部落を活用するなどの経営手腕を発揮して、組合をリードし、昭和4~5年には、経営はやや順調な発展を示すようになる。昭和5年には四種兼営の本格的な産業組合に改組、昭和9年には待望の農業倉庫を建設した。当時、小作米だけでなく米の全流通機構を巨大地主(山居倉庫、鶴岡倉庫)が完全に支配してきた庄内にとっては、それはまさに画期的な出来事であった。以来、北平田産組は、渋谷の指導力のもとに順調に発展し、昭和9年8月には衆議院議員高木、片桐両子爵の訪問視察を受けるなど、北平田産組は庄内だけでなく、山形県の模範産組としてその名をとどろかせてゆく。そして同年9月には、渋谷は県信用組合連合会の理事に就任、県の産組運動の中心的役割を担うようになっていく。さらに北平田産組は、納税組合や負債整理組合などの実質的な推進母体として、北平田村全体の発展の中心をなしてゆくのである。

渋谷のこのような産組運動の成功は、彼のリーダー的資質と経営才腕によるところが大きかったが、そのほかに次の二つの状況の成熟があったことも忘れてはならない。一つは、大正末期からの庄内の農民運動が、リーダーの分裂や財政的ゆきづまりなどのため、農民勢力を結集する力を失っていたことである。多くの農民は、農民組合運動に失望し、自分たちの生活を守ってくれる新しい運動の台頭に期待を寄せる状況が庄内にもあったことである。もう一つは、昭和恐慌と満州事変の勃発を契機に、従来の地主依存の国政から生産農民重視の方向へ、とくに産組の系統的確立や経済更生運動など、国政に大きな変化があったことである。まさに時代の変化が渋谷の先駆的な産組運動を助けたといってもいいのである。

渋谷は山木とともに、加藤完治を通して石原莞爾にも師事した。満州事変後、満州をどうするかについて、東京九段の偕行社で加藤、石黒忠篤、それに満州から急遽参加した板垣征四郎、石原莞爾らの会合に、山木、渋谷も加わっている。そこで満州移民の話が加藤主導でまとまり、以後、渋谷は満州移民についても熱心な支援活動を続けたのである。

また、戦時下の食糧事情が窮迫するなかで、米穀市場の統制が進み、平沼内閣は昭和14(1939)年4月、米穀配給統制法を公布、既存の米穀取引所は廃止されることになった。ここに全庄内に君臨した山居倉庫は50年の歴史を閉じることになり、県の仲介によって山居倉庫は県購販連(産組の組織)の連合農業倉庫に賃貸することになった。こうして山居と農倉の苛烈な戦いは、時代の推移の中で結局農倉の勝利に帰してゆくのであるが、この難問題の解決も、いまや県産組の実力者となった山木、渋谷のリードによって実現されたのである。

渋谷は、そのほか農村工業問題などにも手をつけたが、これはあまり成功しなかった。ともかく、昭和恐慌期から戦時体制期にかけて、渋谷は、その農本主義的思想と卓越した経営能力を結合させて、北平田村、庄内、山形全県のリーダーとして、縦横の働きをしたのである。そこには、彼の思想と経営の実現を可能にした我が国の時代の推移があったことも忘れてはならない。

渋谷は、戦後昭和30年の合併酒田市の市議、市議会議長などを歴任。また河村食用菌研究所を設立してその社長となっている。昭和60年6月没。88歳であった。

(筆者・菅野 正 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

渋谷 勇夫 (しぶや・ゆうふ)

明治30年3月15日生まれ、旧北平田村(現・酒田市)久保田、渋谷金太郎の長男。庄内農業校卒業。県立自治講習所を修了。北平田小学校教員、北平田村青年団長を歴任して同村収入役に。大正15年から7年勤めた。この間に北平田村信用販売購買利用組合を設立して組合長にあり、また収入役を退職後、山木武夫と農業倉庫を建設するなど産業組合活動を推進、その後も農業団体の再編成などに活躍した。酒田市議、議長もつとめた。

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