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郷土の先人・先覚72・庄内に国学の新風注ぐ

魯道(寛政3-天保15年)

本楯新田目の梵照寺境内に慶応2年に建てられた「圓通魯道禅師塔碑」がある。この碑文の作者が当時の大学者・佐藤一斎(坦)であることは、安祥寺境内にある上林白水の碑文が皆川淇園であるのと双璧であって注目されるべき石碑である。ただし、どういう経緯で一斎が書いたのはよくわからない。

碑文によると、魯道は寛政3(1791)年 平田郷漆曽根の大庄屋・岡本善作の三男として生まれ、7歳の時、亀ケ崎青原寺住職で"庄内の道元"と称された金龍の弟子となった。17歳から修行に出、加賀大乗寺で潜龍及び天龍二師について参禅、27歳のとき、師・金龍の跡をついで青原寺住職となった。

鶴岡の郷土史家・池田玄斎は魯道をあまりよく思っていなかったらしく『病間雑抄』をみると、青原寺の庭を広くするため開基志村伊豆守夫妻の墓を動かしたとか、農民騒動のさい、教論に出かけ「そのように騒ぎ立てては仏意にかなわず、来生は地獄へ落ちるぞ」というと「何をいうか、今眼前が地獄なり」といわれ、こそこそ帰ったなどと記されている。

しかし、魯道はなかなかの学者であり歌をよむ風流和尚であったし、51歳の時には大本山能登総持寺の輪番を勤めており、禅僧としても秀れていたのである。何と言っても魯道の功績は来遊の国学者を庄内に紹介したり、優遇したことであって、これは不滅の光を放っている。

文政4(1821)年、良寛和尚の実弟で、歌人の山本由之が落魄して船場町の廻船問屋・本庄屋三郎兵衛の家に約1年間も逗留したさい、彼は親しく交わり旅情を慰めている。天保7(1836)年10月には本居宣長の高弟で『源氏物語』の研究家・服部菅雄が、国学を広めるために1人飄然と来酒したが、藩をはばかり白崎一実らも公然と応援することができず、また誰一人として入門して教えを聞こうとする人もいなく、暖国生まれの菅雄が東北の厳しい冬を迎え、安祥寺や下日枝神社の床下で夜を過ごすという悲惨さだった。この時、魯道は真に親身になって面倒をみており、海晏寺へも彼の紹介で14日も泊まっている。

私達がかつて本間家史料を調査していた時、魯道が菅雄の最後の模様を書いて四代光道に送った書面を発見し、これにより初めて菅雄が持地院の本堂の西の松林に葬られたことがわかった。弘化元年には秋田に平田篤胤を尋ね、秋田町の渡部五兵エに来泊した国学者を庄内に紹介し、大山に賢木舎(さかきのや)を作るに至り、儒学一辺倒の庄内に国学の新風を注いだ。天保15年、54歳で没した。

(筆者・田村寛三 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

魯道 (ろどう)

僧侶。酒田市漆曽根(北平田)の大庄屋・岡本善作の三男。7歳で酒田・亀ケ崎の青原寺住職・金龍の弟子に。諸国行脚を経て27歳のとき金龍の跡を継いで青原寺住職となる。41歳のとき新田目の梵照寺住職に移り、51歳のとき能登総持寺の輪番をつとめ、学問を好み、和歌を学び、酒田における国学の中心的役割を果たし、能書家としても知られた。天保15(1844)年に国学者・鈴木重胤の来庄に際し、これに入門し庄内地方に国学が広まる糸口をつくった。

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