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郷土の先人・先覚74・郷土史家、「飽海郡誌」の編集にも従事

斎藤 美澄(安政4-大正4年)

斎藤美澄氏の写真

酒田の上日枝神社の神主は、戦前までは代々斎藤大隈守が家職としてついでいた。斎藤家の先祖が近江国から日枝神社を奉じて宮野浦にきたと、同家では語り継がれており、"酒田の草分け"的意識が強かった。従ってつい近年まで同社の脇に草分旅館があったのはそのあらわれという。幕末のころ、同家の長男に夫の尊皇家が生まれ、過激な言動が多かったことからやむを得ず勘当し、南遊佐米島の白山神社社家から清澄を養子とした。

ところが、清澄にも子供がいなかったからか、本町・根上善治の二男謙吉を養子とした。この謙吉がのちの美澄となる。美澄が16歳の時に撮った写真が残されているが、写真箱の裏に「大耳、重瞳(ひとみが二つある異相)で神童のほまれあり」と書かれている。弟の純吉は亀ケ崎の矢島家の養子になり、のち海軍中将になっている。いわば酒田きっての秀才兄弟だった。

美澄は大山の大滝光賢や鶴岡の照井名柄に国学を、酒田・荒町で塾を開いていた神保乙平に漢学を学んだ。明治7年からは海晏寺にあった河雲学校や亀ケ崎の鳴鶴学校の教師を勤めた。『古事記』や『日本書紀』に造詣が深く、同13年7月には招かれて大和国大和神社の神職となり、奈良県知事の委嘱を受けて『大和史料』の編纂にあたった。同25年には三輪神社宮司になっている。この間、東京大学の懸賞募集に「高倉宮墳墓考」「日本金石私考」などの論文を提出し、入選した。

同26年帰郷して吹浦大物忌神社宮司となり、大正6年までつとめた。その後、養父の跡をついで上日枝神社社司となり、そのかたわら『飽海郡誌』10巻の編纂に従事した。

『飽海郡誌』10巻は誠に貴重なもので、今でも飽海史研究の原典となっている。この本に載せられている古文書で、現在はもうなくなっているものも随分多い。

若い頃から文章に長じ、地主三吉・池田信太郎とともに『江北雑誌』を発刊したり、その後も、酒田の総合雑誌「木鐸」などで健筆を振るった。郷土史家としても精力的な仕事をし、上日枝神社社司時代は連日のように羽織袴姿で本間家に勤め、日本三大地主史料といわれる膨大な「本間家史料」の整理編纂に従事した。

その成果は没後の大正9年『本間四郎三郎光丘翁事歴』として出版され、光丘神社設立の原因となったほか、莫大な量にのぼる「本間家家誌稿」が同家の土蔵に残されている。ただ、本間家をはばかってか、下日枝神社史料のみを重視したとして養父の清澄は快く思っていなかった。

(筆者・田村寛三 氏/1988年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 美澄 (さいとう・よしずみ)

郷土史家。安政4(1857)年に酒田の本町に生まれた。幼名謙吉。神職・斎藤清澄の養子になった。国学、漢学を修め、明治7年から酒田の河雲学校、次いで鳴鶴学校の教師。古事記・日本書紀の知識が深く、同13年7月招かれて大和国大和神社の神職。奈良県知事の委嘱で大和史料を編纂した。同26年帰郷し、吹浦大物忌神社宮司、その後、酒田・上日枝神社社司をつとめた。そのかたわら「飽海郡誌」の編集に従事した。「大和史料」など著書多数。大正4年3月26日、59歳で死去した。

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