斎藤英明は、幼にして親元を離れ、酒田の林昌寺住職・松下観明上人の徒弟となった。英明は仏道修行と共に書画を好み、ひそかに筆墨に親しんだ。
名古屋の浄土宗教校在学中に、石井柏亭主宰の画学校に通い、日本画を専攻した。
大正5年浄土宗教校を卒業し、大本山増上寺に寺務員として勤務する。そのかたわら環堵画塾に南画を学び、小室翠雲に師事し、馨泉と号し本格的に画業を志す。
大正9年山形市成願寺住職となる。そして、竹田裁縫塾の講師となり女子教育に従事する。翌10年、松嶺町心光寺住職となる。心光寺では、寺務のかたわら、画学生の教育、書画の教授に専念した。そして、昭和3年に保育所朝日園を松嶺町に創設し、その経営に当たった。
昭和6年酒田町瑞相寺住職となる。林昌寺住職を助け、浄土宗山形教区の要職、また酒田の方面委員などを務める。ほかに酒田裁縫女学校の書道講師をつとめた。
南画はいよいよ筆が冴え、同10年、田二景と題し、南画鑑賞会(小室翠雲会長)の第2回習画展覧会に入選し、奨励賞の褒賞に浴している。
昭和14年林昌寺住職となり、同時に浄土宗山形教区教務所長に任ぜられる。この間、時宗が浄土宗に合併し、その業務に当たった。また戦時下の苦しい宗政を担った。
ほかに農繁期託児所などの開設などにも宗教人として力を注いだ。
戦後は、酒田仏教和合会長を長くつとめ、浄土宗酒田組長の要職についた。僧階は、正僧正緋衣被着許可、讃教、擬講。
画は晩年、富岡鉄斎に傾倒し、書は六朝墓碑銘にあこがれた。本間美術館で個展を催すなど独自の書画の境地を開拓するに至った。英明(馨泉)は、書画は読書による教養と人間性の影響であると、常に力説された。
ほかに古書画類の鑑定に長けていた。特に真偽の判定には狂いがなく、信任が厚かった。また自らも書画を収集した。
昭和36年、英明は林昌寺瑞相寺関係者らと共に学校法人林昌学園を創設し、理事長となる。そして、酒田南高等学校を経営する。41年には酒田短期大学を創立、二代目学長となる。同45年酒田保育専門学校を創立、校長に就任。同57年には学校法人天真学園と合併し、天真林昌学園を創り理事長となる。これら私学振興の功績により60年8月15日正六位に叙せられ、勲四等瑞宝章を授けられた。
明治26年9月15日松嶺町に生まれる。幼にして父を失い、林昌寺松下観明の徒弟となる。大正5年名古屋浄土宗教校を卒業し大本山増上寺に勤務。大正9年山形市成願寺住職のかたわら、書画に親しみ、竹田裁縫塾の講師となる。大正10年松嶺町心光寺住職、朝日園(保育所)を創設。昭和6年瑞相寺、同14年林昌寺住職。その間、書画に親しみ馨泉と号し、自ら揮毫する。酒田裁縫女学校講師、学校法人天真林昌学園理事、学校法人林昌学園を創設。酒田短大学長、酒田保育専門学校長など。昭和60年7月18日遷化す。