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郷土の先人・先覚78 生物研究の先覚者

斎藤宗雄(明治10-昭和32年)

斎藤宗雄氏の写真

明治10年6月12日、父・宗敏の勤めの関係で湯温海で誕生。同25年高等小学校を卒業。独学で4年後小学校本科正教員、後10年間に中等教員の植物・動物・生理科の視覚を取られたのであるが、その精励努力と不屈の精神は何人も驚嘆することであろう。

鶴岡南高(旧荘内中学・鶴岡中学)には明治36年以来、昭和24年まで実に47年間博物の教員として在職、その教えを受けた者は数千名に及び私もその1人である。

その間、先生は荘内博物学会を組織し、地方の博物研究の道を開いたり、標本作りに優れた才能を発揮されたり多くの業績を残された。昭和24年私はたまたま生物教師として鶴岡南高にお世話になったが、先生の苦心の作の標本も虫害などでひどく傷んでいた。ある日進駐軍のアメリカ人が、突然標本室を見たいと来校した。この人はその道の学者であったかも知れないが、先生の標本はこの人達の耳にも入るほど有名であったのだろうか。

標本は哺乳類約70点、鳥類数百点、魚類・爬虫類その他数百点に及ぶ。

先生は生物の研究の先覚者であられた以上に偉大な教育者であった。先生は「宗雄ちゃ」という尊称で親しまれた。その授業は懇切丁寧で分かり易く、要点は几帳面な文字で黒板に記され、特に図解は得意で鶏卵は怪我で痛められたという肘をコンパスの中心のように使い、一筆で描かれるのには驚いた。

標本を乱暴に扱ったりすると先生の「にらみ」が数分続き、言葉少なく静かにたしなめられたが、とても怖く感じた。試験問題は何年も同じで生徒は助かったが、ぜひ覚えて欲しい点を精選されたのであろう。移動動物園で死んだニシキヘビを解剖してはく製にされた話なども印象に残っている。

当時研究しておられたホタルの一種の幼虫を写生図を掲げて説明されたこともあったと思う。通勤時はズックの鞄を腕にかけ、中折帽をかぶっておられたが、生徒の挨拶にいちいち脱帽して答礼されるのには恐縮した。これらの先生の教育姿勢は、今の教育に対して多くの反省と示唆を与えるものと思われる。

先生は81歳で昭和32年12月19日に自宅で逝去、長円寺に眠る。

(筆者・鈴木鉄太郎 氏/1988年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 宗雄 (さいとう・むねお)

17歳のとき独学で小学校教員の免許を取り、動植物の採集調査に専念。北村山郡白鳥小学校の校長をしていた明治35年に無試験検定で中等教員免許を取得し、同36年に荘内中学校(現・鶴岡南高校)の教諭になった。以来、昭和24年まで長期にわたり、同校が新制高校になるまで博物担当の教員として勤務した。著名な学者らと親交を深め、荘内博物学会を創設し、地方の動植物の研究、紹介に努めた。享年81歳。

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