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郷土の先人・先覚82 慈善家。主要道路に腰掛石設置

秋野平次郎(天保2-明治26年)

秋野平次郎氏の写真

天保2(1831)年3月、浜田村の秋野家に生まれる。先祖は加茂・秋野家の分かれで、加茂屋といい、浜田と船場町で代々、米商と回船問屋を営み、すこぶる家産に富んでいた。

当時、荷物運送を業とするものは67.5kgまでのものは自ら背負って運搬していた。ですから心ある人たちは古木材で休み場と称し、高さ72cm、幅33cm、長さ198cmのものを、8町から10町ごとに設けて、荷物を背負ったまま、一時休むことができるように便宜を図った。しかし、木材は半年間も雪に埋もれていると多くは朽ちてしまう。

そこで平次郎は、石で休み場を作れば永久に運搬人の助けになると思いつき、最上地方その他から切石を購入し、その石を角材に仕立て、酒田市街の72個をはじめとして、全部で971個の休み石を庄内全域の道路に設置した。その費用は実に1070円の巨額に達した。明治16年8月に工を起こし、満4カ年を費やして20年8月に完了した。これによってどれだけの人達が助けられたか分からない。

慈善家、徳行家としての平次郎の名は一躍、庄内に鳴り響いた。しかし、現在は交通事情の激変により、腰掛石はすっかりその姿を消してしまった。

平次郎のこの行動は、重荷を背負う人たちの苦しみを救おうとする慈善心の発露であり、温海の孝子慶玉が庄内各地の水飲み場に柄杓を置いたことに匹敵する美挙である。平次郎は事業家としても才能を発揮し、ロシア語のできる堀端の藤塚熊太郎を番頭としてロシアとも交易し、酒田有数の回船問屋に発展させた。

明治26年3月、平次郎は63歳で没したが、「積善の家に余慶あり」の言葉通り、加茂屋はその後も栄えた。

(筆者・田村寛三 氏/1988年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

秋野 平次郎 (あきの・へいじろう)

酒田市の浜田に生まれた(天保2年3月19日)。徳行家として著名。荷を背負って通る人々の利便を考慮して、庄内各地の主要道路に腰掛石の設置を計画し、明治16年以来最上地方から多くの切石を取り寄せて、8町または10町ごとに2、3本ずつ置き、約4年かかって工事を完了させた。石の数は全部で971個。費用は1070円。明治26年3月25日、63歳で亡くなった。

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