昭和62年に日本経済新聞のコラム欄に、酒田の生んだ天才相場師・本間宗久の著した「相場秘伝書」をニューヨークのウォール街で翻訳し、研究されていることが発表されて以来、にわかに宗久の研究者が増えているが、明治末頃から昭和初期にかけ米相場師として活躍した宮本辰弥は、宗久の血筋を引いており、さすがに血は争えないものと思う。
宗久の母、満津(まつ)は藩の御典医をしていた宮本高哲の一人娘であり、本間家初代原光の後妻になるとき、男の子が生まれたら宮本家を継がせることを条件とした。従って原光と満津の間にできた初めての男の子俊庵は医師となり、宮本家を再興するはずだったが、何かの事情で、本町で医を開業したものの、ついに宮本姓を名乗らなかった。
そのため宗久は宮本家再興資金として莫大なお金を本間家4代当主光道に預けておいた。それをもとに、宗久の忘れ形見のお吟に医師結城庭賢の二男、太仲を入夫となし、文化4年6月、鵜渡河原袋町に宮本家を再興した。従って代々医師を業としていたが、辰弥に至って宗久の相場の血がよみがえったものか、米相場師として世に立った。辰弥は最初、本間家の親類であることから、船場町の下蔵でその経営に当たった。この下蔵もはじめ、宗久が開いたものであることを思うとき、不思議なめぐり合わせと感ずる。
ここでみっちり相場道を修業した辰弥は、やがて本町五丁目に店をかまえ、米穀取引業を開き、宗久以来の天賦の才能に恵まれた彼は、相場師として次第に頭角を現すようになった。まもなく山椒小路に精米所を造っている。
宮本家には宗久の秘伝書その他、相場の極意書を筆写したものが残されているが、その表紙の裏に辰弥が「この本は相場を知らないものが写したもので誤りが多い。読む人特に注意せられたし」と記している。辰弥は袋町の本宅には土曜日しか帰らず、ほとんど本町で商売をし、暮らしていた。そこで近くの横町にあった「蔦(つた)の湯」を会場に、「朝風呂会」を開いた。1週間に何回か曜日を決めて、朝風呂に入り、その後、宮本家で京都などの料理で朝がゆを食べて散会した。
会員には町の助役をしていた五十嵐太兵衛や、親類の港屋時計店主人菅原富太郎等の富商がおり、情報交換の場にしていたものらしい。また、毎年、秋になると鵜渡河原の老人を本宅に招待し、ごちそうをし、自分は茶の間からその様子を楽しそうに黙って見ていた。最上川からとれる鮭や、はららごが主で、料理には親類の女性達が総動員された。昭和14年、83歳で没する。
明治末から昭和初めにかけて活躍した相場師。安政5(1858)年5月7日酒田の鵜渡河原に生まれ、当初、船場町にある本間家の下蔵の経営にあたり、ここで相場道を修業した。旧本町五丁目に米穀取引所を開設し、次第に相場師としての優れた才能を発揮。精米所も開いた。情報交換の場として朝風呂会を作ったり、毎年1回、鵜渡河原の老人たちを招待してごちそうし、敬老精神も厚かった。昭和14年11月22日に死去した。