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郷土の先人・先覚92 篤農家 水稲育種の組織つくる

佐藤順治(明治8-昭和11年)

佐藤順治氏の写真

明治26年に設立された農商務省農事試験場では明治37年から人工交配による稲の品種改良に着手したが、大正前期にはその成果はまだ庄内には及ばなかった。西田川郡部会は、品種改良の重要性を認識して独自に育種組織を作り上げたが、その中心人物として活躍したのが佐藤順治である。

順治は明治45年に郡農会技師として着任した萩尾貞蔵より、同年8月23日に人工交配の技術を伝授され、以降郡農会の育種組織において交配係として多数の人工交配をなし、得られた雑種第一代の種子は郡内に配置された農民育種家に配布された。これは大正13年ごろまで続けられたが、大正10年に阿部勘次郎に配布された「大宝寺早生×中生愛国」の組み合わせから、最盛時の昭和24年に山形県1万7300ヘクタール余に普及した「大国早生」が育成されたのである。

順治はこの組織とは別に「東郷二号」より明治42年に「東郷新二号」を選出し、また大正3年には同じ「東郷二号」より「豊年」を選出したほか、大正12年に交配した「亀ノ尾×愛国」の交配から「山錦」を育成した。山錦は最盛時の昭和17年には、庄内地方を中心に約1000ヘクタールに植えられた。

順治は大正6年には稲のある交配組み合わせの雑種第2代を用いて、芒の有無の分離がメンデルの法則に合致するかどうかの計算までしている。このように彼の育種は当時の学問の最先端を導入したもので、科学的なものであった。彼が西田川郡農会の育種組織のために大正6年に書いた「育種ニ関スル注意事項」は、したがって、当時のこの分野での学問の進歩を反映した、最新の情報を取り入れたものであった。これらは、鶴岡出身の農商務省農事試験場の加藤茂苞技師を経由して入手したものと思われる。

実は順治は、無意識のうちに庄内の地方史のために多大の貢献をした。それは彼が水稲の品種改良を行う過程で入手した当時の資料を保存した上に、貴重な記録やメモ、あるいは日記を残したことである。庄内の多くの農民育種家は、記録をほとんど残さなかったので、順治のこの几帳面な性格は、全国に比類をみない戦前の庄内平野における水稲の品種改良の全貌を明らかにする上で、多大な貢献をしているのである。もっともこれに関しては、それらを破棄せずに保存、整理されている子息の東蔵氏もその功績を分かつべきものであろう。

(筆者・菅 洋 氏/1988年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 順治 (さとう・じゅんじ)

篤農家。田川郡角田二口村(現在・三川町)の富農佐藤広胖の長男として明治8年に生まれた。鶴岡出身の農学者加藤茂苞らの指導を受け、水稲品種「東郷新二号」「東郷二号」「山錦」「小柳」などを創選。水稲育種組織を作った。農事のかたわら俳句をたしなみ、明治44年、寿庵三世砂濤と号し、第2代荘内羽扇会長となった。代々東蔵と称し、元三川町長佐藤東蔵氏の厳父。昭和11年8月、62歳で死去した。

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