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郷土の先人・先覚94 代表作「田家百絶」竹雨も高く評価。地方農政にも尽力

荘司修理之助(明治20-昭和17年)

荘司修理之助氏の写真

農業のかたわら漢詩に情熱をかたむけ、田園詩人とうたわれた荘司修理之助(号・吟竜)は、中平田村手蔵田(現・酒田市)の荘司勝助の長男として、明治20年3月に生まれている。生家が地主で代々五郎八を襲名していたが、修理之助の先代からは襲名していない。旧家で本間家とのつながりも深く、川北の代家(たや=差配人)頭を務めていた家柄である。

漢詩については、20歳ころから漢学者として著名な須田古龍に師事して漢詩を学び、めきめきと頭角をあらわしている。その後、東京にいた弟の世話で随おう社と関係をもち、「万朝報」「東京日日新聞」に投稿、それが縁で当時一流の漢詩人・土屋竹雨、岩渓裳川の知遇を得て、深い交わりを結んでいる。中でも鶴岡出身の竹雨とは年齢も同じで、特に親しくしていたようで同家には今でも竹雨からの書簡が残っており、多くの漢詩が書かれているという。

修理之助の詩作は30年間で500編にものぼるといわれるが、その中でなんといっても代表作といわれる「田家百絶(でんかひゃくぜつ)」をあげなければならない。

昭和11年、庄内農村の有志によって結成された荘内松柏会がある。この会では農村の発展と、農村の人材育成を目的とした「松柏」という機関紙を毎月発行している。修理之助はこの本に「田家百絶」と題して毎号、七言絶句の詩を5首ずつ連載、約2年間にわたって100首を発表しており、その非凡な才能を竹雨らは"稀にみる田園詩人"と称えている。この田家百絶は今でも手蔵田の生家で大切に保存しているという。

こうした素晴らしい文学趣味をもった修理之助は、半面非常に義理人情に厚かった人である。話を前二もどし、師匠古龍のことにふれてみると、そのころ古龍は"赤貧洗うが如し"の生活であったという。修理之助は師のそうした窮乏を見るに忍びず、経済的にいろいろ援助している。それに対して報いるものもない古龍は、漢詩を書いた書や、漢詩を彫刻した得意の竹細工などお礼のしるしにしたという。生家にはこうした古龍の遺品も数多く残っている。

後年、修理之助は亡くなる前に、師古龍のことを酒田の本間家に頼んでいる。その後本間家からは、毎年盆と正月に米が届けられたという。心の通った子弟の温かい結び付きを感ずることができる。

晩年は本間光勇らと交わり、中平田村産業組合長・同村農会長・飽海郡農会副会長などをつとめ、地方の農政に尽くしている。没年は昭和17年9月、56歳である。手蔵田の長淵寺に墓がある。

(筆者・荘司芳雄 氏/1988年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

荘司 修理之助 (しょうじ・しゅうりのすけ)

田園詩人。酒田市手蔵田生まれ(明治20年3月19日)。農業のかたわら20歳のころから漢学者須田古龍に漢詩を習い、「東京日日新聞」などに投稿。土屋竹雨ら一流漢詩人に高く評価され、親交を深めた。残した作品は約30年の間に500編。なかでも「田家百絶」は代表作。光丘文庫監事、中平田村産業組合長、同農会長、飽海郡農会副会長など務め、昭和17年9月4日、56歳で死去した。

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