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藤沢周平書籍作品あれこれ

相模守は無害(2)

「相模守は無害(1)」 からのつづき

主人公・明楽箭八郎が海坂藩に潜入する際、信者のふりをして入った修験の山として登場する「荒倉山」。同名の山が鶴岡市西目にある(左側の峰)。標高300m余りで日本海と平野を隔てる。中世には修験の山として栄え「西の羽黒」とも称された。うっそうとした杉林の山中に重厚な構えの荒倉神社がたたずむ

荘内藩の支藩で、忠勝公の三弟長門守が封じられた白岩領で、苛政(かせい)に耐えかねた領民が江戸に上り直訴したのが寛永10(1633)年のことである。その後の長門守の行動、荘内藩との関係、その人を取り巻く藩内の抗争などは、『長門守の陰謀』に詳しい。この事件をもとにして、幕府隠密を登場させ、架空の物語に仕立てたのがこの作品である。お庭番という表の顔と隠密という裏の顔を持つ明楽箭八郎の暗い宿命、苛酷な戦いなどが描かれていて、海坂藩の危機はやや薄められた感があるが、時代小説の面白みはたっぷりある。

箭八郎が江戸に戻ったのは、相模守とその一派が失脚し、処分も終わったのを見届けたからであった。箭八郎は幕府に「相模守は無害である」と報告し、ようやく御用屋敷の中にある長屋へ戻った。箭八郎を待っている家族は誰もいない。ただ1人残っていた母親は、箭八郎が14年も北国へ潜んでいた間に病死している。父も同じお庭番として早くに死に、娶(めと)った妻は箭八郎が信州に行った後、自殺した。隠密という使命に生きる家に嫁したことに絶望したからだろうと箭八郎は思っている。また、幼なじみで、組頭の娘でもある勢津という女性が登場するが、この人の夫も同じ仕事で命を落とし、勢津は娘と2人の生活である。非情な幕命の下、死と隣り合わせの日常を送る隠密。その暗い宿命を負いながらも、人間的な交情を深めようとする箭八郎と勢津に哀感が込められる。藤沢さんの時代小説の醍醐味(だいごみ)であろう。

明楽箭八郎は再び海坂藩に潜入する。今度は幕命ではなく、自分の報告の間違いを正すためであった。死を覚悟しての旅立ちである。箭八郎は海坂藩にいた9年間、石置き場の人足に姿を変えていた。はじめは城下の北にある荒倉山という修験の山に信者のふりをして入った。その荒倉山でつてを求めて石置き場に住み込んだ。石置き場は町はずれにあったが、お城の外濠(そとぼり)の代わりである五間川の川岸にあった。石は近隣の山々から川舟で運ばれ、石置き場に貯(たくわ)えられる。お城の石垣の修理や五間川の護岸に用いられるのであった。隠密として町を探り回るには格好の場所だった。

北国の海坂藩は冬がもうやって来ていた。その寒さに耐えながら、箭八郎の仕事が続いた。幕府の隠密の目を欺き、うその報告をさせた海坂藩の藩主神山右京亮と弟の神山相模守とに一撃を与えるために。「相模守は無害」と真に言えるために。非情な手段を取ってもなし遂げようとする執念が描かれている。藤沢さんの「荘内藩史」に対する関心の深さも見られる作品として注目される。

(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
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