文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

藤沢周平書籍作品あれこれ

相模守は無害(1)

『相模守は無害』の舞台は海坂(うなさか)藩である。作中にその海坂藩はこんなふうに紹介されている。「海坂藩は小藩ながら、三河以来の譜代大名だった。外様の多い奥州の地に、ぽつんと投げ入れられたように海坂藩を置いたのは、藩祖備後守に対する幕府の厚い信頼があったからだと言われている」

酒井家の菩提寺(ぼだいじ)・大督寺にある同家墓所に通じる専用の山門(鶴岡市家中新町)

これは荘内藩の状況と同じであり、徳川四天王の1人、酒井忠次を家祖とする3代目忠勝が荘内13万8000石に転封された時のことを説明したような感じがする。この『相模守は無害』は昭和49(1974)年に「オール讀物」に掲載されたのだが、実はその2年後に「歴史読本」に書いた『長門守の陰謀』と全く同じ事件を題材にした作品なのである。荘内藩酒井家にとって最大の危機とも言われる「長門守事件」がそれである。この史実をもとに藤沢周平さんは2つの短編を残した。この事件はその後の作品、海坂藩ものに形を変えながら度々登場する。例えば『三屋清左衛門残日録』にも非常に似た話が出てくる。海坂藩の藩内抗争のモデルになった感があるが、それほどこの事件に対して藤沢さんは並々ならぬ関心を抱いたのであろう。

『相模守は無害』の主人公は幕府の隠密の明楽箭八郎(あけら・やはちろう)である。幕府の若年寄に命ぜられて海坂藩に赴き、14年間もの長い歳月をかけて探索した。海坂藩の支藩である山鳥領に5年間、海坂藩に9年間潜んで藩内を探っていた。その幕府の命令は次のように描かれている。

「ひとつは、ただいま百姓一揆が起きている海坂藩の支藩山鳥藩の始終を見届けること、とくに藩主相模守教宗の始末を見届けること」とし、さらには「もし本藩の神山右京亮が、弟相模守を援護し、あるいは相模守を本藩に引き取り相当の身分を与える場合が考えられる。その時は引き続き海坂藩に行って探索を続け、相模守の動静を探ること」という命令だった。

また、相模守によって万一、現在の世子である新七頼保と夫人に危害が及ぶような恐れが生じたらそれを食い止めよ、ということも付け加えられた。海坂藩主の右京亮は弟の相模守を偏愛しているため、そのような事態(自分の嫡男よりも弟相模守の肩を持つ)の恐れがあるのだ、と幕府の若年寄は心配している。その心配のとおりに海坂藩は相模守によって崩壊せんばかりの状況に陥るのであった。最後は世子派と相模守派とに分裂して権力争いが始まったため、多くの藩が改易となったのと同じ運命を海坂藩もたどってしまう。そこで隠密の身分を明かしても、藩内の世子派の人々と結束して相模守を失脚させるべく奮闘した明楽箭八郎だった。

「相模守は無害(2)」へつづく

(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field