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藤沢周平書籍作品あれこれ

蝉しぐれ

『蝉しぐれ』は海坂(うなさか)藩ものを代表する傑作である。この作品には世代を問わずファンが多く、若い人でも主人公の牧文四郎に惚れ込む読者がいる。中・高年の読者では、文中に描かれる海坂藩の四季の風景に郷愁を感じる人が多いという。

『蝉しぐれ』には主人公とその友人2人の交流が描かれていて、青春時代の情感が胸を打つ。若者たちがたどる歓あり、苦ありの人生にも深い感動がある。主人公の文四郎と、隣家の娘・ふくとの恋も涙なしには読めない。文四郎は苦難を乗り越え、最後には郡奉行という要職につくのであるが、その波乱に満ちた青春時代がこの小説の中心である。

しかし、今回は文四郎にではなく、その父親である牧助左衛門にスポットを当ててみようと思う。牧助左衛門は海坂藩の普請組の侍である。城下のはずれにある組屋敷に住み、28石二人扶持(ぶち)という微禄の貧乏侍であるが、300坪ほどの屋敷を与えられているので畑を耕したり、樹木をさまざま植えることもできた。屋敷の裏手には小川が流れていて、顔を洗ったり、畑の水やりに使ったり、重宝している。この小川は城下の南西の丘から流れてくるので水は夏でも冷たく、きれいである。しかし、山の懐深くに水源があるため、時に「山かがし」なども流れてくる。隣家の娘ふくが噛(か)まれたのもこの蛇であった。

さて、父の牧助左衛門であるが、実は文四郎と血のつながりはない。妻・登世の甥(おい)である文四郎を養子にもらったのである。文四郎の実家は120石。右筆を務める長兄とは20歳近く年が離れている。末弟の文四郎は、わずか28石とはいえ、牧家の跡取りとなったわけである。文四郎は血のつながっている養母よりも父の方が好きであった。母は杓子(しゃくし)定規で細かく、小言の多い女だったので、ついつい煩わしく思うのである。父は仕事がら、工事などの現場に行くことが多く、体もがっしりしていて、いかにも働き者という感じである。こんな描写がある。

「助左衛門は家の中ではあまり物をしゃべらず、登世や文四郎に何か言うときは低くやさしい声で話す」

働き者で無口だが心優しい男という、海坂藩に登場する主人公たちに共通の性格を助左衛門も持っている。そして、助左衛門は息子の文四郎にとって尊敬すべき、勇気のある男でもある。まず、「嵐」の章でそれが描かれている。文四郎が15の時の晩秋、大嵐がやってくる。その日、江戸からやって来たと思われる武士2人と一緒に出かけたまま、父の助左衛門は夜半すぎても帰らなかった。ところが、五間川が増水し城下に危険が迫ったため、普請組に動員がかかった。父の代わりに出動した文四郎は、城下の東南方にある「柳の曲がり」と呼ばれる場所まで走る。そこの土手を切って水を流し、城下の中心部が水浸しになるのを防ごうとしたのである。この時の五間川の濁流のさま、橋板を超え始める水流、風雨に飛ばされる木の葉の描写は凄く、迫力満点である。近年こそ河川の氾濫(はんらん)はあまり見られなくなったが、鶴岡の内川も、赤川も、その支流の小さな川も、昔はよく増水し、一夜のうちに稲田や畑を水浸しにしたもので「水がついた」と嘆いた記憶のある方も多いことだろう。

文四郎たち作業隊が指揮者の命令で「柳の曲がり」を切ろうとしたそのとき、牧助左衛門が駆けつけ、それを必死で止めた。取り入れ前の稲田をつぶさないで、もう少し上流の「鴨の曲がり」を切ってほしいと嘆願する。その田は金井村の人々の田で、助左衛門のこの一言により、多くの農民が助けられたのである。その時の助左衛門は気迫のこもった熱弁をふるい、文四郎は驚くとともに「おやじはすごいな」と心から尊敬するのであった。

次に文四郎にとって忘れられない助左衛門の姿は、翌年の夏に起きた事件によって、強く胸に刻み込まれる。助左衛門のほかに20人ほどの侍が反逆罪に問われ、龍興寺に収容され、切腹という処分が決まる。最期の面会に龍興寺に行った文四郎は父親の助左衛門に圧倒されてしまう。助左衛門は文四郎に対し、いつもと変わりない態度、落ち着いた声でものを言う。

「…わしは恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。(中略)文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ」

このように逆に励まされた文四郎は、言いたかったことを一言も言えず、父と今生の別れをしてしまう。この父の潔さ、強さに圧倒される。文四郎は一生、この父のような人間になりたいと思うようになる。つまり、牧助左衛門は理想の父親像、男性像として息子の胸に刻まれたのである。

『たそがれ清兵衛』の清兵衛や『うらなり与右衛門』の与右衛門、『風の果て』の桑山孫助(主人公の養父になる人)などは、多分にこの牧助左衛門に近い人物であろう。寡黙で働き者で、周囲の人に信頼される男。何よりも家族に対してやさしく誠実である男。理想の父像は現実にはなかなか難しい姿ではあるが、海坂藩には多くいるのである。

鶴岡市泉町の龍覚寺と、鴨の曲がりの写真
(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
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