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藤沢周平書籍作品あれこれ

藤沢周平を語る

時代小説の第一人者誕生

では、どの辺からそうじゃなくなってくるかといいますと、『用心棒日月抄』というのを書き出した頃から、幾分明るい方向に転化していきます。この頃は自分の小説を大変よく読んでくれる読者を意識しています。また、作家としての地位も確かなものになっています。そして、現在見られるような藤沢周平文学の主流が築かれていったと思います。ご自分も、『用心棒日月抄』の頃から少しずつ自分の人生のトンネルを抜け出した、そういう気持ちになったとおっしゃっています。

46歳で直木賞を受賞するのですが、考えてみれば26歳から46歳というと20年ですよね。20年の間不幸に耐えるというのは、口で言うと簡単ですが、自分のこととして考えると、やっぱり26から46までいろんな不幸があったら私ならぐれるかもなぁと思います。20年間も我慢できるだろうかと思ってしまいますが、子供抱えていたこともありましょうし、最初の奥さんの三浦悦子さんに対する思いもあったでしょうし、ここで自分がへばってはいられない、そういう気持ちもあったと思いますけど、20年間という長い歳月を出口のないトンネルのような毎日の中でよく耐えたものですね。そして、長編短編合わせて200作品以上の作品を20年間くらいの間に一気に書くのですが、よくそのエネルギーをとっておいたものだなあとしみじみ思います。

藤沢周平というペンネームはその奥さんの生まれ故郷である鶴岡市の藤沢をとったものです。悦子さんを偲ぶということで藤沢という名前をつけ、周平は自分が可愛がっていた甥の名前をとったんだそうです。藤沢周平とペンネームを名乗るようになったのも、そういう思いがあったようですね。

その後は、たくさんの作品を発表したり、いろんな賞をもらったりしまして、例えば吉川栄治文学賞であるとか、絵医術選奨文部大臣賞であるとか、それから最後は紫綬褒章までもらいました。藤沢さんは、地元に文学碑を建てることをいやがっていたようですし、教え子以外から先生と言われるのもいやがっていた人だし、様々の反権力というかそういう立場の小説が非常に多いですし、藤沢さんが勲章をもらったことに関しては意外に思う人もいたようです。

このように、69歳まではほんとに波乱万丈でありましたが、病気になって故郷を出なかったならば、つまり中学の国語の教師として終わっていたら、素敵ないい先生だったと教え子に慕われて平々凡々な教師として一生を終わったと思います。校長先生になったかもしれませんが。しかし、病気になったり、一家離散や破産、おまけに奥さんに死なれたりいろんな不幸があって自分の生き方を探っているうちに時代小説を書くという糸口を見つけたことは、私たちにとっては非常にありがたいといいましょうか、よくぞ残して下さったと感謝したいなあというふうに思います。

「藤沢周平を語る4 故郷を思う心」へ続く 

(山形県高等学校司書研修会講演より)

(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
海坂かわら版
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