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藤沢周平書籍作品あれこれ

藤沢周平を語る

海坂藩と荘内藩(下)

この、藩のごたごたがあるということ、権力争いがなければ、もしかしたら武士ものは書けなかったかもしれませんが、それが必ずあるのが特徴です。それから、この海坂藩ものの多くには、農村生活といいましょうか農民生活が非常に良く出てくるということです。武士が主人公でありますが、実は藩の財政の基本というのはお米ですから、そういう農政をどうすべきかという問題はやはり大変大事なことですね。どうやって税金を効率良く取り上げ、しかも農民を飢えさせずに済むかということは、藩をあずかる為政者たちの大事なテーマなわけです。藩というものを書こうとした時は当然農業問題は抜き差しならぬテーマなわけで、それを通して風景描写つまり青い田圃、風にそよぐ青田の風景であるとか、農民が田や畑で働いている風景であるとか、それからまた新しい川を作るため沢山の人夫が武士からも農民からも出て、そして成功したり失敗したりする話であるとか、そういう様な農業の政策にかかわる話が非常に多いということが特徴だと思います。それに気を付けながら読んでいくと、ああやっぱり藤沢さんは農業をした人だ、実際に自分で田圃を耕したり畑を耕し茄子に水をやったり、あるいは収穫をして皆で今年は豊作だったと喜び合ったりした人だったんだなあと思いますね。そういう生活は結核になるまでには実際あったのです。農家の次男坊として長男を助けて家を栄えさせなければならないという使命感があって、お兄さんが戦争に行っていた間は自分がお父さんを助けなければならないということで良く働いていたようですし、農業に関心があった人だったんです。実際16歳の時、鶴岡の松柏会、農業問題を考えたり、それから種や苗を育てたりする松柏会というのに入っていたんです。そこで漢詩の勉強をしたり、農業の未来を話したり、新しい鶴岡の農産物の品種のことを考えたり、そういう議論をする場にちゃんと出ているんです。ですから、農業に関心があって、実際農民として耕した人だからこそ荘内藩の農業政策というものに非常に関心があったんだろうと思います。例えば、今鶴岡を流れている青龍寺川というのは用水路ですし、朝日の方から流れてくる越中堰、天保堰とかたくさん堰がありますが、これらは殆どが最上義光公が庄内を支配していた頃から工事が始められ、酒井さんが庄内へ来たあとも作られた川です。為政者たちが結果的には自分たちの懐を豊かにすることではありますが、表高14万石で実は庄内は20万石位であるということから、農民がよその藩よりは恵まれた立場にいられたということになります。ですから、農政問題という、ちょっと違う視点から眺めると、海坂ものもなかなか面白いなあと思うようになりました。

「藤沢周平を語る7 おわりに」へ続く 

(山形県高等学校司書研修会講演より)

(筆者・松田静子/鶴岡藤沢周平文学愛好会顧問)
海坂かわら版
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