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郷土の先人・先覚30

阿部 頌二

阿部頌二氏の写真

バハキヤ・インドネシア・ムルディカ(インドネシア独立に栄光あれ)

終戦直後、収容されていたインドネシアの刑務所の壁に現地語で書かれた"血の遺書"である。これを書いた人こそ鶴岡市湯野浜出身の阿部頌二だ。この言葉は当時のスカルノ大統領の心を動かし、抑留されていた多数の日本人を救う結果となった。

頌二は湯野浜温泉亀屋ホテルの生まれ、阿部与十郎社長の実弟である。旧制鶴岡中学から早稲田大商学部へ進学し、昭和16年に卒業。弘前第8師団に入隊したが間もなく除隊になり、森永乳業に入社。ジャワのスマトラ市にあった森永農園の勤務となった。

しかし、戦果はだんだん日本が不利になり、森永農園の勤務もつかの間、終戦を迎えた。日本人と現地人の立場は全く逆になり、日本が全面降伏して2カ月後スマトラ市では現地民の暴動が続き、頌二も捕らえられブルー刑務所に収監となった。

そして10月15日の運命の日を迎えた。暴動に興奮した民衆が刑務所を襲撃し、収容されていた日本人に向けて機関銃を乱射した。30数人が折り重なって倒れた。

頌二も撃たれた1人。インドネシアを愛し、独立を願っていた頌二は、地獄絵図の中で自らの鮮血で、コンクリートの壁に「バハキヤ・インドネシア・ムルディカ」と書き残し、書き終わったところで絶命したらしく、人差し指が血のりで壁にぴったりくっついていたという。弱冠27歳のときだ。

終戦前は元オランダ副総督の官舎で、多くの使用人を抱えて暮らしていた頌二が、軍から毎日受けていた宣伝工作費100万円を有効に利用し、現地民が切望していた保母の養成所や幼稚園、小中学校、病院、回教寺院などを建てた。

まだ20代の青年がリーダーとなって大事業をやりとげ、指揮していた1万人余の労働者に朝夕や、会合などで「バハキヤ・インドネシア・ムルディカ」を唱和させ、インドネシアの独立を強く願っていたので、現地民の人望は強かった。

頌二が死亡した数カ月後刑務所を訪れたカスマン国防相が獄中を点検中、頌二の残した血書をみつけ、胸を打たれた。このことは直ちにスカルノ大統領に伝わり、国境、民族、憎しみを越え、死の瞬間までインドネシアの独立を念じた頌二の行動は、大統領を強く感動させた。

同時にこの感動は広くインドネシア全体に波及。現地民と日本人のトラブルがなくなり、「日本人は同胞」の意識を強めさせ、各地に抑留されていた日本人は一斉に釈放された。インドネシアが準備した船で速やかに帰国することができた。その数は6万4000人、日本人が不安なく帰国できたのは頌二のおかげといわれた。

インドネシアも昭和24年12月、国連のあっせんで主権を確立。頌二の父・松五郎が、33年に日本を訪れた時スカルノ大統領の招待を受けている。

また、頌二の功績は亀屋ホテルの前に建っている碑が後世に伝えている。頌徳院南山寿昌居士。湯野浜の東慶院に眠っている。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 頌二(あべ・しょうじ)

大正8年2月25日、湯野浜の亀屋ホテルに松五郎(3代目与十郎)の二男として生まれる。インドネシアの森永農園に勤務中、現地民の生活安定を図り、現地人労働者にインドネシア独立の理念を教育した。しかし、敗戦に伴ってスマラン市内の刑務所に収容され、20年10月15日、刑務所を襲った暴徒に撃たれて、血書を残し死去した。壮絶な死である。享年27歳。亀屋ホテルの前に「インドネシア独立万歳と血書して玉と砕けし、日本男の子よ」と刻んだ記念碑がある。

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