「ドイツの農村を回ってみると、どこの家にもラジオはあるし、鶏の100羽位はみな飼っている。日本の農村では、ラジオはわずか、鶏の10羽も飼っていればいいほうである」内藤先生西洋史講義の1コマである。大戦前の古い話。歴史専攻でもなかった私には、史実の詮索よりも、むしろ横道にそれた実話の方が興味深かった。
読経で鍛えられたせいもあってか澄んだお声の、一寸巻き舌のような感じで、庄内訛りのまじった独特の口調で、古今東西にわたって流暢に講義をされた。学内でも「東北人だがお話の上手な先生」との定評があった。
先生は、私の遠戚に当たる家の菩提寺のご出身。その上隣村ということもあって、学生の頃には、たまに東京白山のお家にお邪魔する機会もあった。京人形のような、きれいな物静かな奥様と、端然とした和服姿の先生は、よく郷里のお話をして下さった。「最上川沿いから今年は何人合格した」とか、「知人や教え子の仲人を50何組もした」とか、世話好きでまた郷里思いのお方でもあった。
たまたま私が余目高校に勤務していた頃、全校生に講演して下さったことがあった。「東北人は大器晩成型だから、慌てずしっかり頑張るように」との激励であったように記憶している。
「当地の桜蔭委員(東京女高師・お茶大同窓会員)と一緒に庄内の温泉地にでも行ってみたい」そのお話を伺い、田中せき大先輩をはじめとして、湯田川のたみや旅館に集い、和やかなひとときを持ったのは、先生の92、3歳頃だったろうか。矍鑠(かくしゃく)たるお姿に皆びっくりしたものだった。
この源は、昭和58年11月、教え子たちが東京で催した白寿の祝賀会での師のお言葉の中にうかがえる。
仏門のご出身であり、幼少からの道も自ら凡人のそれとは異なっておられたであろうし、また、外務省勤務という経歴のせいか、中東文化の研究家で文学博士の肩書きがありながら、単なる研究一筋とは違い、まことに視野の広い、気負いのない、庶民的なお人柄であった。それでいて、その心底には旺盛な精神力が漲っていたように思われる。
文学博士。明治19年7月13日余目町古関、玄通寺の生まれ。荘内中学、旧制七高(鹿児島)を経て同45年東京帝大西洋史学科を卒業。鹿児島県の中学校教諭、東大図書館司書、山形高校教授から外務省入り。トルコ、イラン、アラビアに勤務して公務のかたわら中東文化を研究した。昭和4年帰国して東京女子高等師範、国学院、慶応、聖心女子各大教授を歴任し、パキスタン協会副会長として国際親善にも活躍。西洋史学者、余目町名誉町民。昭和59年7月24日、98歳で死去した。