鶴岡市出身の作家・藤沢周平さんの業績をたたえる「藤沢周平記念館」(仮称)がまもなく鶴岡公園内に完成する。藤沢さんは平成9年に他界したが、作品は死後も輝きを放ち続け、「たそがれ清兵衛」をはじめ、藤沢作品は次々に映画化された。現在は6作目となる「花のあと」が撮影中。昭和48年、「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞した藤沢さんは以後、創作活動に専念、人気作家の階段を駆け上がった。直木賞受賞後、荘内日報の依頼に応じ、故郷の人々へのメッセージをつづった随想を寄せた。その全文を紹介する。(原文のまま、昭和49年1月1日付荘内日報紙上に掲載)
暮れ近い十一月に、私は久しぶりに鶴岡に帰った。直木賞をもらったお祝いをして頂けるというので帰ったのである。
お祝いはともかく、一度はあちこちとあいさつに帰らなければ、と思っていたのである。賞というものは、一見個人的な事柄のように思えるが、郷里のあの人、この人に出会わなければ今日の私はないわけで、また現実に沢山の人のお世話になってもいる。そういう方々と喜びをわけ合うということで、公けの意味も含んでいるわけである。
そう思いながら、帰るのに手間どったのは、本職が業界紙の新聞記者で、この仕事からなかなか手が抜けないことと、受賞後のマスコミのお相手が重なって、早速には帰れなかったのである。
それが曲りなりにも昨年のうちに帰れたのは、一時はひどく混雑した、新聞の仕事と小説の仕事が、どうにかそれぞれ道がついて、区分け出来る状態になったためである。それに市会議員をしている従兄からの帰還命令が、次第に荒っぽくなり、これ以上のばしたら叱られそうな気もしたのである。
十一月八日に帰り、三日間鶴岡にいて十日の夜山形市に行き、十一日東京に帰った。
帰ってから一週間ばかり私は郷里で会った人々の顔を次々と思い浮かべながら日を過ごしたようである。
二十七年ぶりに中学の同級生にも会ったし、湯田川では沢山の教え子と、当時一緒に仕事をした同僚の先生方に会った。これは二十年ぶりだった。次に行った生まれた土地である黄金地区では、実に三十年ぶりに小学校の時の同級生に会った。
教え子たちはあまり変わらなかった。年は三十六、七で二、三人の子持ちであるが、まだ若々しく、私の眼には大人と子供の半々ぐらいにしか見えなかった。多分中学生のころの顔や声や、動作などが重なって見えたためであろう。教え子というは実に不思議である。私の耳には、何年たっても当時のひとりひとりの声が聞こえ、脳裏には当時のこの人たちの顔が思い浮かんでくるのである。
湯田川公民館で、あいさつのために壇上に立ったとき、私はあまりに沢山の教え子がいるので、一瞬昔の先生に戻ったような気分を味わったのだった。
旧同僚岡部繁雄氏のご尽力で、当時の小、中学校の同僚の先生方にお会いできたのは、まったく予期していなかっただけに、思わぬもうけものをした気がし、感激した。先生方はほとんど変わりなく見えた。私が一緒に仕事をした当時、この方々はもう大人だったためだろうか。時間がなく、ろくに話すひまもなかったことが、いまも心残りである。
変わったのは中学の同級生だった。 鶴岡に帰った日の夜、私たちは元曲師町のひさご亭で早速同級会を開いた。私はその席でも祝って頂き、記念品まで頂いたのであるが、そこにいる間中、私は気もそぞろいう感じで、かつての級友の顔を眺め続けた。
ある人は肥り、ある人は痩せ、そして白髪があったり、皺があったりした。頭の毛が薄くなった人もいた。級友の眼には、私がそのように見えたに違いない。信じられないだろうが当時の私は丸顔でたっぷり肉がついていたのである。
そこにいるのは、みんな一家の主と呼ばれるにふさわしい男たちだった。
学校を出た頃から、私たちはそれぞれ違う道を歩きはじめ、会うことも少なくなった。そして妻をめとり、子供をもうけ、鳥が巣を作るように、自分の家を形づくってきたのである。
必ずしも平たんな道ばかりがあったわけではない。仕事の上で決断を迫られたり子供が病気をしたり、金に苦労したりということがあっても、ともかくそれを自分ひとりの才覚で切り抜けてきたのである。そうして人生の長い橋を渡って四十も半ばになったがゆえに、白髪もふえ、額に皺も刻んでいるのである。級友のひとりひとりの顔に、二十七年前の面影を重ねながら、私は人生とはこのようなもので、人間とはこのようなものなのだ、と思わずにいられなかった。
林創作工芸の社長林輝-古賀らで笑うと頬にえくぼが出る可愛い少年だった。庄内ミートの専務三村千吉-戦闘帽がよく似合う気の強い少年だった。菅原喜久市は相変らず男前だが、腹が出てきた。井上辰雄、後藤永士-往年の美少年たちの、いまの頭の毛の薄さよ。
同級会の席は、このような私の感慨とは別に、陽気でにぎやかだった。それはひと戦さを終わって、生きて顔を合わせた戦友の交歓に似ていた。
同じ同級生でも、黄金公民館で会った小学校の同級生たちは、また感じが違った。
もちろん私が老けたように、みんな老けていた。だがそのことが、私には少しも気にならなかった。私はそこに彼等がいてくれたことで十分だった。彼等は私にとって故郷そのものだった。三十年会わなかったのに、私は民田に行けば久雄や嘉吉がいる、滝沢に行けば渡がいる、寿に行けば末治がいると思ってきたのである。会おうと思えばいつでも会える。そう思ってきた。
実際にはその気持のまま、茫々三十年が過ぎ去ったのである。
あちこちでお祝いをして頂き、ただ有難くしあわせだった。さらにこの機会に沢山の人々にお会いできたことは、賞のほかにもうひとつ大きな贈り物をもらった気持がし、いまも家のものにみやげ話を持ち出し、尽きることがない。
郷里から雪の便りがしきりである。皆さん風邪をひかないで春を迎えて欲しいと思う。