文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚101 教育制度確立に尽力 貧者の救済にも力注ぐ

野附彰常(文政8-明治25年)

文政8年、旧観音寺村(現・酒田市)、荒瀬郷大組頭庄司甚太郎の二男として出生、幼名久吉。嘉永2年25歳の時、酒田米屋町組大庄屋野附七郎右衛門の養子となり、9代目を継ぎ、大庄屋を40年間勤めた。

野附家は、はじめ荒瀬町住。貞亨3年より明治に至るまで200年余にわたって大庄屋(後に町年寄)の職にあった。

彰常は幼い時から学問を好み、6歳にして漢籍を学び、経史、詩文に通じ、やがては当地に教える師なしと言われた。自宅に寺子屋を開き、子弟の教育にあたり、その数60人に達したという。

大庄屋の職にあっては、藩公の信望厚く、地方公益の増進と貧者の救済に力を尽くし、時には私財を投じ一身一家を顧みない職務に専念し、数々の業績を残し、藩公よりしばしば賞を受けている。

戊辰の役に際しては同志と謀り、会津・米沢・庄内の3藩連合を画策。それが奥羽越列藩同盟締結の基盤となった。

明治新政下、酒田県松平知事とともに上京の折、福沢諭吉等と交わり、酒田では森藤右エ門、鳥海時雨郎等と尽性社を組織して、自由民権思想の高揚につとめた。

また、教育制度確立にも尽力。明治2年酒田民政局長官・四岡周碩と、天正寺に学而館をひらき、100人に及ぶ生徒の教育にあたる。明治5年学制公布により大中小学区制がしかれると「学区取締」となり、学務主任山岸貞文と当地方の新学制編成に取り組み、翌6年小学区の発足をみるに至る。明治8年第5大区管内の天正学校・鳴鶴学校以下26校の学区取締。同13年、酒田72カ所の中学校学務委員を申し付けられるなど、明治初年の当地方学制確立と教育向上に多大な貢献をなした。

彰常の書き残した大庄屋御用記録「野附叢書」112冊がある。「伊東家文書」「三十六人御用帳」とともに、酒田3大文書と称され、近世初期の当地方の歴史を知る貴重な資料とされる。酒田市光丘文庫に所蔵されている。

明治25年没。享年68歳。

(筆者・庄司 功 氏/1988年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

野附 彰常 (のづき・あきつね)

教育功労者。八幡町の出身。酒田・米屋町組大庄屋の養子になりのちに大庄屋。自宅に寺子屋を開設して地域の子供たちを教育した。天正寺に学而館が創設(明治2年6月)されると同時に、学業係に選ばれ、同5年酒田県学区取締となり、学校主任山岸貞文とともに、学校創立を計画してそれを実現、明治新学制編成に尽力した。大庄屋御用記録「野附叢書」(112冊)は酒田の3大文書の1つにあげられている。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field