文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚110 庄内博物学に高い業績

長澤利英(嘉永3-明治38年)

庄内博物学者の1人、長澤利英先生については長い月日の経過と共に忘却の彼方に隠れ去られようとしている。同じ博物学者の中村正雄先生が活躍されたころの人である。

長澤利英先生は嘉永3年8月、鶴岡市上肴町の商業家・鷲田藤助氏の二男として生まれ、幼名を雄之助と呼ばれていた。荘内藩士・松平顕郎氏の援助、協力によって上京し、明治8年まで英語を学び、帰郷したあと、長澤の姓を継いだ。そして再度上京して慶応義塾に入学し、蘭学、数学、物理、化学を学び帰郷した。

同10年学区取締令はフランスの制度を設け、全国に大学、中学、小学校に分け、「取扱備忘誌」に「中学校開設に付懇切世話致候に付御賞詞有之」とあり、お祝いとして訓導には弐拾伍(25)銭ずつ賜る、と鶴岡南高校80年史に記してある。鶴岡変則中学校といわれたころ、山形県一等訓導として、現在の県立鶴岡南高等学校に勤務した草創期の1人であった。

同11年9月に山形県師範学校開設一等訓導として、理化学教授となった。理科実験のため多くの器具を購入して、実験の授業を多く試みていた。

1つのエピソードがあった。同14年9月30日、明治天皇が東北地方御巡幸の折、長澤利英先生がその理化学実験指導者として、御前実験を行った。生徒の佐々木忠蔵さんと、結城嘉美さんが実験を行うことになり、当時としては稀に見る燃焼論について天覧を供したという。

その思い出話を結城さんは山形植物研究の「先覚者列伝」に詳しく述べておられるが、陛下のお言葉の中に、今日の実験はいずれもよくやった。将来ますます勉強するようにと申し聞かせたそうである。長澤利英先生は、結城さんにとっては、理化学の恩師であったことになる。

同16年ころから植物に見識を持たれ、植物採集に熱中。国立博物館に所蔵されている植物の中で、ノミノフスマ、オヤマボクチ、チョウカイフスマ、アズマシロガネソウ、ウラシマツツジ、ミヤマウスユキソウなどは最も古い標本として保管されているという。

同21年から愛媛県尋常師範学校に勤務しているが、同25年3月までの5年間、郷里・鶴岡に帰るまでの活躍については調査に至らず残念ながら不明である。

帰郷した長澤利英先生は、荘内尋常中学校に改称された山形県立荘内中学校に勤務。当時、教えを受けた人に植物学者・村井定固先生がいた。あらに同校には同僚として中村正雄先生もおり、庄内博物学の研究に没頭され、山野を跋渉して集めた標本は山の如く積まれていたという。

長澤利英先生は同25年4月、荘内私立中学の教育嘱託に。同38年1月5日現職のまま病状が悪化し、亡くなった。享年58歳。

(筆者・阿蘇 和夫 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

長澤 利英 (ながさわ・としひで)

博物学者。嘉永3年8月23日生まれ。明治2年5月より同5年12月まで慶応義塾に入学、英学を学んだ。同9年4月12日に鶴岡県三等訓導、同11年9月2日に山形県師範学校一等訓導となる。同14年9月30日、山形県に明治天皇御巡幸時に理化学実験9種目を天覧に供した。同17年7月20日、山形県中学校の二等教授を兼任。同21年2月28日、愛媛県尋常師範学校教諭、同県獣医学校教諭。同25年4月20日、荘内私立中学校の嘱託。同38年1月5日在職中に癌で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field