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郷土の先人・先覚116 地方政治などに大きな足跡残す

菅井惣左衛門(嘉永4-昭和4年)

菅井惣左衛門氏の写真

地方政治、教育などに大きな足跡を残した菅井惣左衛門は、西平田村大字遊摺部村(現・酒田市)の出身である。

先代の惣左衛門時代から屋敷内で、寺子屋による教育を行っていたが、明治7年公立学校が発足すると、屋敷内の寺子屋を改造して菅井学校となり、惣左衛門は酒田県より小学校仮教師として任命され、同8年鶴岡県より四等授業生、同12年には山形県より五等准訓導に任命されているが、同年依願退職し、菅井学校の世話役となっている。

山形県では、明治12年に第1回の県会議員の選挙が行われ、飽海郡からは4名が選出され、同年第1回の県会が開かれている。惣左衛門もこの頃から政治を志し、同14年12月に飽海郡選出の県会議員補欠選挙に当選した。同17年5月に県会議員を退任すると、同年10月には飛鳥村外二十六ケ村連合村会議員に当選している。

その後も惣左衛門は飽海郡内連合町村会議員、庄内三郡連合会議員、上曽根等5カ村戸長、同20年には鵜渡川原外3カ村戸長になっている。その間、吉田学校資産管理や飽海郡教育会員などの多くの役職を勤めており、さらに同15年に自由党にも加盟している。

同22年に町村制が施行されるや、3月に鵜渡川原村事務執行と、大宮村、遊摺部村、大町村が合併してできた西平田村の事務執行を命じられ、同年6月には西平田村の初代村長となった。

惣左衛門は、明治29年に西平田村の村長の職を辞しているが、この地方の農地改良や開田事業にも力を尽くし、農業発展に大きく貢献している。産業界にも目を向けるようになり、同31年1月には酒田魚産株式会社を設立、その社長となり、酒田新聞社の経営にも参画している。

遊摺部村は昔、川南にあったが、最上川による川欠で、嘉永5年に川北の五丁野谷地に全村移転、新しく屋敷割されるが、惣左衛門家の屋敷は、最大の750坪割り当てされた。惣左衛門の家系に残る文書によると、惣左衛門家は元文年間から村々の土地を集め、大農に成長している。しかし、惣左衛門の活躍は、家産を傾ける結果となり、遊摺部を去り南遊佐村大字宮内で晩年を送っている。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

菅井 惣左衛門 (すがい・そうざえもん)

嘉永4年7代目惣左衛門の一子として、遊摺部村に生まれる。教育者で政治家。学舎肌のところがあり、たびたび東京に勉強に出かけたという。6尺(約181cm)近い長身で、馬丁付の馬に乗って通行、厳しい性格であったという。昭和4年没。

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