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郷土の先人・先覚127 農村問題の研究と実践にかけた生涯

阿部一郎(明治13-昭和34年)

阿部一郎氏の写真

日中戦争から第二次大戦と戦争は拡大し、国においては食糧確保の対策として、昭和17年食糧法を公布。県においても右にならい知事・斎藤亮を設立委員長に、主要食糧の管理と配給を一手に預かる食糧営団を発足させ、理事長には組織の性格上、公平無私、人格、識見共に優れている人物として選ばれたのが、阿部一郎であった。彼は昭和7年農務官吏として県庁を退職すると同時に、農業の生産計画と営農技術の指導団体である県農会の幹事に迎えられ、農事改良と増産計画に関わること10年余。やがて終戦という一大転換期を迎え、混迷の中からようやく立ち上がりの兆しが見え始めた24年、山形県の振興対策として「第一次山形県総合開発計画」が策定された。その最重要課題は「農業計画の合理化と増産計画」であり、その最も重要なポストである振興審議会の農林部会長を務めた。

彼の少年期から没するまでの60年間は、ひたすら農村問題の研究と実践に打ち込んだ生涯であった。彼の生涯を振り返って見ると、明治13(1880)年12月21日初代の県視学で、教育者として名声を博した阿部富太郎の長男として、飽海郡上郷村山寺(現・酒田市松山地区)に生まれた。彼の少年期から青年期にかけての山形県は、農事改良の変革期で、乾田馬耕の始まりはこの頃であり、体験重視の農業教育から学問としてとらえる農業教育に改革、制度化されたのもその頃(明治27年)のことである。

彼は「札幌農学校に教授として招へいされたクラーク博士の教育理念に触発され、農業の学問を通して自分が生まれ育った農村地域に役立つ仕事をしたい」との意思から、創設間もない山形県尋常中学校(現・山形東高校)の農業専修に3年間学んだ。卒業と同時に北村山郡立農学校の助教諭兼学校舎監として奉職。明治38年、25歳の年を最後に、国、県の農務官吏に転出し、農業技手兼西田川農事試験所所長、県立穀物検査所講師、病虫害予防委員、内閣直任官の農業技師、地方小作官などを歴任。昭和34年8月30日、78歳で没するまで、農政一筋の人であった。

(筆者・鈴木 三也 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部 一郎 (あべ・いちろう)

哲学者・阿部次郎たち学者兄弟の長兄。生涯の大半を山形市で過ごしたが、戦後は山寺の生家に帰ることも多く、村の青年たちを集め、農業経営の在り方を講義することも度々であった。動物学者で山形大学農学部教授の阿部襄博士は彼の長男。

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