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郷土の先人・先覚129 地域産業の発展に尽力

8代目春日山鹿右衛門(文化12-安政6年)

春日山鹿右衛門を名乗る力士は庄内から複数出ており、8代目は酒田出身である。まずはじめにほかの春日山について簡単に記してみる。

庄内から出た最初の春日山は4代目で、田川郡櫛引村(現・鶴岡市櫛引地区)出身である。文化2(1805)年10月に春日山を名乗り、その場所回向院(えこういん)で5尺3寸の小兵ながら大関・雷電為右衛門を破っている。最高位は小結である。

2人目は田川郡大山村(現・鶴岡市大山地区)出身で前記春日山の門人。文政9(1826)年1月、5代目春日山を継いでいる。幕内在位16年、最高位は前頭4枚目である。

3人目の力士は鶴岡市上肴町の出身で、文政4(1821)年江戸に上って5代目春日山の門に入り、根津ケ関と名乗ったが、天保5(1834)年に春日山(6代目)と改名、同10(1839)年に引退している。最高位は幕下2枚目(十両格)である。なお、4代目、5代目、6代目とも伊勢ノ海一門に所属した力士である。

次に4人目の春日山に焦点を当ててみる。彼は文化12(1815)年、田川郡黒森村(現・酒田市黒森)の五十嵐文治郎の家に生まれている。伝えるところによると、子供のころから大木を相手にぶつかり稽古をやって、力持ちになる努力をしたというから力士になることを夢にみた少年だったようである。天保7(1868)年江戸に上って雷(いかづち)権太夫に弟子入り。鬼切、友千鳥を名乗る。やがて同11(1840)年、東幕下10枚目、今でいう十両に進み、荒綱揖之助と改名。そして翌年2月には鶴ケ峰の四股名で土俵に上がっている。

嘉永3(1850)年11月に彼は35歳で入幕、西方8枚目に位置している。今の力士から見れば35歳は現役力士の晩年であるが、彼はこのころが最も円熟した時代のようで、この場所の3日目、東方の大関・剣山谷右衛門を破っている。

8代目春日山を襲名したのが嘉永7(1854)年で、それから3年度の安政4(1857)年43歳で引退しているので、春日山の四股名で土俵をつとめたのは、わずかに3年間だけであった。最高位は前頭5枚目である。 記録によると春日山は「初っ切り」(相撲で余興に行う、敏活で滑稽味のある相撲)の上手な力士であったという。また酒井家のお抱えであった。没年は安政6(1859)年で45歳。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

8代目 春日山 鹿右衛門 (かすがやま・しかえもん)

力士。最高位は前頭5枚目。酒田市黒森の生まれ(文化12年)。25歳のとき力士になるために江戸に上り、雷権太夫に弟子入り。天保11(1840)年2月、東方幕内10枚目(十両格)、嘉永3(1850)年11月、35歳で入幕を果たし西方8枚目。同7年に8代目春日山鹿右衛門に四股名を変えた。安政4年11月43歳で引退。安政6年7月11日、45歳で亡くなった。

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