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郷土の先人・先覚13

黒崎 研堂

黒崎研堂氏の写真

黒崎研堂、名は馨、通称・与八郎。旧庄内藩家老・酒井了明の三男として、嘉永5(1852)年鶴岡で生まれた。戊辰の役に僅か16歳で出陣し、役後に同藩士黒崎家の養嗣子となった。生家の母お市は、聡明で頗る能書の人で、また和歌もよくした人であった。3人兄弟で、長兄は戊辰の役に2番大隊長として出征、名将と称された了恒(玄蕃)で、書・漢詩を能くし学識深い人物であった。次兄調良は、庄内柿を創始したことで有名である。この人も能書家として聞こえた。従ってこの3人は、庄内の名筆3兄弟といわれた。

戊辰の役後、研堂は、臥牛菅実秀に師事してその教えに精一な勉学をなした。そして少年時に藩校致道館に学んだ経学史学を基礎として、日夕の勉励は一通りのものでなかった。なお、致道館で修得した武術と音楽(雅楽・笙・笛)などは戊辰敗戦後自ら棄て去った、といっていた。

かくて他の藩士と共に、松ケ岡の開墾事業に従事してその幹部になり、随分苦難に耐えてなお勉学に励んだ。

中年以後、旧藩主の命により、盟友・犬塚一貞と共に、酒井家学問所の担任となり、自ら一層の勉学に励むと同時に、子弟の育成に尽瘁した。

その他酒井家関係の事業2、3にも役員として力を尽くしたのであったが、その多忙の間において、常に悠々たる風容を持していた。

研堂の書暦のそもそもは不詳であるが、明治19年に日下部鳴鶴に逢ってからその書風が一変したといわれる。鳴鶴が来鶴した時、旧藩主忠篤が、研堂を接待役にして厚くもてなした。研堂は毎日宿に訪ねて、夜おそくまで鳴鶴のそばにおり、その書論を聞き書法を学んで己まず、家に帰れば早速臨書に励んでいた。鳴鶴はその後37年秋に2度目の来鶴をなし、この時も研堂は真剣な研鑽をなし得たのであった。鳴鶴もまた研堂の人となりとその真剣さには、深く感動したという。

書道について研堂は「経学と書道は切り離すべからざるもの」と語っていた。一方、多くの人々が「研堂先生は、近代庄内の書道の父である」ともいっている。一切の名利や毀誉褒貶に動かされない高潔な志尚は、刻苦精励した教学に因ってのものであろうが、あの格調の高い書風も全くその根底有っての現れと思われて、仰慕に堪えないのである。

従ってただの「書家」に非ずして「大書家」と称したいと思う。

(筆者・酒井忠治 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

黒崎 研堂(くろさき・けんどう)

風格ある書風を築いた書家。

嘉永5(1852)年に馬場町の家老・酒井了明の三男として生まれ、名は馨という。明治元年黒崎友信の養子となり、その後、戊辰戦争を経て松ケ岡開墾、北海道開拓に従事。明治19年、日本書道界の第一人者・日下部鳴鶴が来鶴した際、その書風を尊敬し入門。以来、書道の研究を重ね、松平穆堂、吉田苞竹などを育てる。研堂の書法は廻腕法といわれ、「書は楷書より習うべし、書の第一は気品にあり」として、精神表現・心の修養を強調した。

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