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郷土の先人・先覚135 飛砂と闘い西浜を開発

高橋作左衛門(生没年不詳)

激しい飛砂の害に苦しんでいた飽海郡西浜の村々を救うために、18世紀後半、植林に努めた佐藤藤蔵父子、本間光丘、曽根原六蔵などは有名であるが、彼等の活躍よりはるかに早い時期に西浜植林と開発を行っていたのが、酒田内町居住の第2代高橋作左衛門である。

作左衛門の祖は元来武士であったといわれ、八日町村(現・遊佐町)に居住後、農に転じている。作左衛門も八日町村に居住していたが、慶安2(1649)年に酒田内町に家作し、転住している。それ以前の寛永18(1641)年には、遊佐郷並びに荒瀬郷の浜地の造林と開墾の成功を、作左衛門家の氏神である稲荷社に祈願している。

初め喜右衛門と清五郎の2名を鍬頭にして、遊佐郷の開墾に着手、それが成功すると今度は荒瀬郷泉新田村の地に家屋を建て、家族や鍬頭を住まわせている。作左衛門自身は内町よりこの地に出かけ、開発の陣頭指揮をとっている。鍬頭の高橋喜右衛門と高橋清五郎の功績が大であったことから、作左衛門は2人を分家として永久に交際することを約束し、作左衛門のかつての菩提寺であった八日町村の浄土宗本願寺の檀家にさせている。

泉新田村の開発は、寛文10(1670)年酒田中町の肝煎・富樫七左衛門によるとされていたので、作左衛門のこの地の開発は部分的なものであれ、七左衛門の開発に先立つものと思われる。作左衛門の没後は、その妻が泉新田に移り住み、没するまでの7年間開墾と家政の指示をしている。

作左衛門が開発に成功した地は、遊佐郷に田20町歩、畑3町歩、荒瀬郷に田10町歩、畑5町歩の計38町歩とされている。

作左衛門の没後も作左衛門の遺志は代々の子孫に受け継がれ、特に6代目作左衛門は西山の飛砂を防ぐため、他の百姓と協力しながら自費で砂止め用簀垣を作り、松苗や雑木を植え付けている。

11代目作左衛門は家業の拡大を図るために鵜渡川原村分の原野10町歩を買い求め、さらに田村新田村への移転を決意したが、宝暦11年に没したために、その妻が実行に移し、明和元(1764)年に内町と泉新田から全家族を移住させている。

高橋家は代々作左衛門か儀兵衛を名乗っている。元禄9年の大絵図にも内町に儀兵衛の名で二十分役の大きな屋敷を備えている。享保ごろには内町組の長人であり、享保3年に庄内藩が酒田商人に2800両の借用を命じた時、高橋儀兵衛は最高の150両を納めている。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

高橋 作左衛門 (たかはし・さくざえもん)

開発者で酒田の大商人。作左衛門は毎年の年越しに一族の夜会を催し、忠孝、知恩報謝、生活の改善を説いたという。先祖は源義家の奥州征討時に付き従ってきたもので、源氏の一族と伝えられ、遊佐郷八日町村の皇太神社を創始。作左衛門の生年、没年とも不詳。

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