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郷土の先人・先覚138 畜産業の発展に貢献

鹿野兼次(嘉永3-大正6年)

鹿野兼次氏の写真

鹿野兼次は、庄内の畜産史上で重要な役割を果たしている。蘭医で将軍・家茂の侍医であった松本順らが東京神田の酒井家中屋敷に明治5年牛舎を建て、病院で用いる牛乳を生産しているが、兼次はその松本牛舎で畜牛法や搾乳法を学んでいる。

同6年兼次は鶴岡に帰り、旧庄内藩主の命により、鶴岡町馬場町にあった旧藩時代の馬小屋を牛舎に変え、放牛、搾乳の業に就いている。同年、酒田にも牛舎を建て、本町の酒田薬種店に牛乳を配達し、同7年に山形の七日町と酒田町本町二丁目に牛乳出張所を設けている。

同8年には城が解体された鶴岡城跡に、100頭近くの牛を放牧して良牛の繁殖と牛乳の生産を行っている。同9年に兼次の畜産・酪農の技術が三島県令に買われ、山形県畜産試験場の動物主任となった。

試験場での兼次は、同14年飽海郡山谷新田村山海(現・酒田市平田地区)に牧場を開き、県勧業課所属の牛30余頭をこの牧場で飼育するなど各地の牧畜場を管理し、県内畜産業の発展に大きな功績を残している。

兼次は退官後隠居したが、明治29年には分家して南平田村大字山谷新田に移住、金谷牧場と鹿野牛乳製造所を経営している。そのために牧場のあった地は鹿野山と称された。なお、この地の山谷字滝谷に、兼次の父の加藤一昌らが既に明治13年、約6町7反の牧場を開き、45頭の牛を飼育している。

加藤一昌は禄20石三人扶持の庄内藩士で、料理を取り扱う御風味方の役を勤めていた。一昌は早くから牛乳飲用が健康に良いことを知り、その飲用を人々に勧め、維新後の明治4年ごろには自ら牛を飼い、牛乳を販売している。同6年に酒田に移り、兼次とともに本町三丁目で牛乳と牛肉の店を開いている。

兼次の事業を大きく伸ばしていったのは、子の善作である。善作は慶応元年、山谷新田の斎藤三蔵の二男として生まれ、鹿野家の養子となった。幼少のころから父・兼次に従って牧場に入り、畜牛飼育などを学んでいる。明治15年に独立、酒田町上寺町に牛舎を建て、蕨岡農場と共同で和牛の品種改良などに努め、同年上寺町で牛乳販売業を営んでいる。

善作は、牛乳を入れる容器と乳質の改良にも心がけている。明治20年に従来のブリキ缶をガラス瓶に改めた。また、同39年には従来は生で販売していた牛乳を煮沸消毒し、更に翌年には蒸気殺菌に改めるなど牛乳販売における衛生上の改善を進め、畜産業の発展に貢献した。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

鹿野 兼次 (かの・かねつぐ)

畜産家。嘉永3年、庄内藩士・加藤三郎治一昌の二男として生まれ、幼名・万寿吉。庄内藩士・鹿野新蔵の養子となる。戊辰戦争に参戦している。明治8年兼次と改名。仕事の面では細やかで、人の面倒見は良かった。一人娘の小銀(明治3年生まれ)は気性が激しく、兼次・善作の片腕以上の働きをし、世間から女傑と称されたほどであった。兼次の若い時は苦しい生活であったが、晩年は山谷新田に茶室を建て、悠々自適の生活をした。大正6年に亡くなった。

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