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郷土の先人・先覚140 発明の天才・商才も抜群

中村太助(天保9-明治40年)

太助は天保9年酒田船場町の本間家下蔵(したぐら)に生まれた。幼にして商家に養われた。下蔵に勤めてたちまち頭角を現し、重用された。明治元年30歳で独立し、中町で食塩販売を始め、同8年洋鉄商をかね、その後、各種の営業を併設し、大いに成功した。

しかし、太助は商業をもって自分の天職とせず、製作工業をもって本来の面目とした。彼は生まれついての機械好き、発明好きで、別に誰から習ったというのでなしにそうした才能を身につけた。同15年には秋田町角に中村鉄工場を設けた。四男・兵五郎と30余人の従業員だった。

次に彼の発明の足跡を略記してみよう。

同8年、この地方に荷車がないことを嘆き、自ら製造して大流行させた。また水揚器械が不完全だったので、独自の考案をして揚水機を作った。これによりつるべ井戸からポンプ式になり、どのくらい助かったか分からない。

その後、彼の技術はますます発達し、地固め機械、水門開閉機を発明、同19年には家屋建築法の改良に着手。ついにボルト接続を考案し、まず自宅の建築に使用した。さらに小学校体操場、劇場、その他大きな建物にも使用した。一部の人は非難したが、27年の大震災の際、彼のボルト式を用いた家屋は全部倒壊しなかったため、世人に認められるようになった。

その後も発明意欲は衰えず、蒸炊釜(むしたきかま)、米研(こめとぎ)器械、消防ポンプ、エンジン菓子製造器、マッチ製造器械、油搾器械、タバコ切器械等を製造した。

27年の両羽橋架橋工事の際は、初め潜水器を使ったが、急流のため作業が思うようにならず行き詰った。この時彼は水底穴穿器械を発明して良好な結果を得、工事の完成に貢献した。これを機会に橋梁鉄具、吊橋組立法、起重器、しゅん泥器などを製作した。

特筆すべきは同30年ごろ、日本で初めて石油発動機を製作したことで、たまたま来遊した工業学校長手島精一に認められ、本邦最初のモーターとして全国的に紹介された。

精米器械を製造して自ら精米所を開始したほか、他人にも盛んにすすめた。一時、本間家でも太助の発明に期待し、新井田精米会社をおこしたが、間もなく閉鎖した。しかし、酒田正米買入所は15馬力の機械を据え付けて成功している。

太助は明治2年三田尻から塩を購入し、鉄船で初めて最上川を上らせ、巨利を博すなど商才にも長けた。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

中村 太助 (なかむら・たすけ)

天保9(1838)年8月2日酒田の船場町に生まれた。中村太助の長男で後に襲名。本間家の使用人となって働いていたが、商才は抜群で、30代に独立。食塩販売をはじめ、鉄物商も行い、庄内で初めてという鉄工場を開設した。機械・器具類を製造し、新製品を開発。水中穿孔機、石油発動機はその代表的な発明。明治40年3月24日、70歳で死去した。

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