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郷土の先人・先覚141 天才画家・生涯短く

岡部敏也(大正9-昭和20年)

岡部敏也氏の写真

昭和52年10月、本間美術館において「岡部敏也遺作展」が開かれた時のパンフレットの中に、彫刻家・高橋剛氏は次のように書いている。

「絵筆を銃に持ちかえ戦死した若き日の岡部敏也さんの遺作が一同に蒐集され、展観されることは誠になつかしく飛んでいって見たいと思います。"中略"岡部さんのような素晴らしい日本画家が郷土から次代に生まれることを望んでやみません」と結んでいる。

大正9(1920)年11月、岡部敏也は酒田元米屋町の染物業・岡部藤治、千代の長男として誕生している。子供のころから絵に親しみ、田中恵泉に日本画の手ほどきを受けたという。

昭和8(1956)年酒田商業学校に入学、11年全国中等学校美術展に出品した「木蓮」が入選。同12年、酒商5年生の時「出陣」を制作、これが17歳の少年の作とは思われないような出来栄えで、見る人を驚嘆させ、そのころから大家の片鱗がカンバスに現れたという。

昭和13年には酒田商業学校を卒業。14年、東京美術学校(東京芸術大学の前身)日本画科に入学しているが、それから卒業までの期間が、岡部敏也の画家としての才能が見事に開花したときである。次にその素晴らしい作品を通して彼の画歴に触れてみる。

昭和17(1942)年、第4回日本画院展に「子供」「婦」を出品、そのうち「婦」は参考作品として美校買い上げ、同年第5回大日美術院展に「そと出」を出品、「そと出」と前出の「子供」はオット独大使夫人の買い上げとなっている。

昭和18年、第5回日本画院展に出品した「農婦」は日本画院賞を受賞して美校買い上げ、院友に推薦される。第6回大日美術院展には「姉妹」を出品し奨励賞を受賞。第6回文展には「知秋」が入選している。美校の卒業作品「山びこ」は優等賞に選ばれて"印"と、川合玉堂賞の“硯”を贈られている。過日岡部家を訪れ、その硯を拝見したが、裏面に大きく優等賞、両側に日本画本科卒業生岡部敏也、東京美術学校と彫られた、立派な硯であった。

美校を首席で同18年10月に卒業(繰り上げ卒業)、間もなく山形連隊に入隊して大陸に従軍しているが、惜しくも昭和20(1945)年8月26日、旧満州興安省五叉溝において戦死。26歳の若さだった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

岡部 敏也 (おかべ・としや)

画家。大正9年11月28日、酒田市の元米屋町に生まれた。酒田商業学校から東京美術学校日本画科に進み、その傍ら洋画研究所で洋画も習得。在学中に日本画院に3回入選、同校を首席で卒業。第6回文展にも入選しており、将来が期待された。しかし、太平洋戦争に従軍、終戦直後の昭和20年8月26日、旧満州で死去。26歳だった。

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