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郷土の先人・先覚152 新川掘割の大工事完遂

今野茂作(文政元-明治15年)

今野茂作氏の写真

鳥海山に源を発した日向川は、江戸期には宮野内新田村辺から向きを西から南に変え、上・下市神、上・下藤塚の村々を通り、田村新田から西に向きを変え、小湊から日本海に注いでいた。この流路の変化がこの地帯を洪水の常襲地にしていた。

例えば、元和9年に堀兵助らが上藤塚新田村を開き、その高99石余となるが日向川の度重なる洪水によって寛永11年にはその3分の2近くを失い、さらに下藤塚新田村、東野新田村のように洪水から逃れるために全村移転しているほどであった。

日向川流域の村々を洪水から救うために、西山に新川を掘割して日向川を直接日本海に注ぐ工事を完成させたのが今野茂作である。茂作は遊佐郷石辻組の大庄屋で、同郷の大組頭・梅津八十右衛門、割役・高橋利吉、浜組大組頭・渡辺多一郎に呼びかけ、安政2年に上市神新田村下よりの新川掘割を願い出ている。

新川掘割の予定地が、かつて佐藤藤蔵らが飛砂の害を防ぐために植林した西山であったことから、計画が実行に移されるまでには多くの紆余曲折があった。藩からの掘割計画の見合中止や中止に反対する農民の打寄り等々。茂作はその解決に心を砕いている。

その結果、藩から許可され、茂作が取扱掛、藩士・萱野又兵衛が新田開発掛となり、安政5年1月より工事を開始、上市神新田村より西に長さ約19町に及ぶ日向川新川掘割が完成したのは文久2(1862)年で、それに要した人夫が遊佐郷・荒瀬郷等から延べ20万人という大工事であった。

茂作はこの工事のために不眠不休の努力をしただけでなく、工事の費用は茂作1人で負担したといわれている。私費では間に合わず、文久元年には新川掘割として村々の公金から300両もの多額の借金をしている。(記事執筆時の)今野家の当主の話でも、30町歩程の所有地が工事費に消えている。

文久2年新川に新しく水が入ると、喜びに沸き返る農民を代表して、若者3人が龍神にふんして新川を下ったという。なお、この工事の成功を祈願して白龍神社を建立している。

藩では茂作の功績を称えて廃川となった旧日向川流域50町余を茂作に与えた。この古川敷は慶応元年には田70町9反余、畑35町余となり、茂作新田と称された。

その後、茂作新田を巡って訴訟事件が起き、茂作新田の地は全て今野家の手を離れているが、新川と美田それに巨大な功績がこの地に残っている。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

今野 茂作 (こんの・もさく)

文政元年、遊佐郷右辻組大庄屋・今野茂兵衛重賢の子として生まれる。三川村に居住。天保14年、大庄屋の職を継ぐ。幼少より学を好み、和歌詩文にも秀で、剣の道も学んでいる。普段は口数が少なかったが、事あればさわやかに弁じたという。天保14年の下総国印旛沼普請に参加、その時学んだ土木技術を新川掘割に生かす。掘割完成には父・茂兵衛の内助の功が大であった。明治6年に名を直温と改める。明治15年に死去した。

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