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郷土の先人・先覚157 地域発展に多大な貢献

鈴木四方吉(嘉永6-昭和18年)

鈴木四方吉氏の写真

鈴木四方吉の祖が、かつての新田目村(現・酒田市)の地で開拓をし、居住したといわれ、四方吉で7代目である。青塚村(現・遊佐町)の青山嘉左衛門と共に、この地方で本間家の代家支配人をしていた。

四方吉は若い時から農業の改良に心がけ、農業書を読み、特に選種に関心を持ち、既に明治7年に稲、麦、大小豆などの選種を行い、その良好品種を人々に勧めている。

明治9年には早くも所有田の区画整理を行い、その乾田化の方針を定めている。同24年に福岡県の伊佐治八郎が乾田馬耕教師として招請されるや、四方吉は馬耕術伝習生に命じられ、本楯村(現・酒田市)の270余の水田を乾田に改良し、隣の村々の乾田化を奨励している。

明治31年本間家では代家支配人、小作頭に試作田を設置させているが、四方吉の試作田は連続一等賞となっている。翌年本楯農友会を組織、試験田を設け、稲の種類別栽培や肥料試験などに取り組んでいる。そのため、東西田川郡下でも、改良苗代や除草のための蟹爪打(がんづめうち)の実地指導などを行っている。

当時の主要輸出品である生糸を、農家の副業として重要視した四方吉は、自ら桑苗を伊達地方より取り寄せ、山林を桑園にし、その普及に努め、4町歩の柿園を経営した。

この地は山林に遠く、薪が不足していたことから、四方吉は村当局と相談し、藤崎字茂り松(現・遊佐町)の荒地を購入。数十町歩に松を植えている。その松葉の採集には日時を決め、1人6丸と限定したが、本楯村民の貴重な燃料となった。しかし、荒地を購入したことから村民の一部には反発もあったという。

明治11年本楯村差立、さらに24年以来、荒瀬郷設置模範田試作人、荒瀬平田両止溝普通水利組合総代人、井皿溝普通水利組合会議員、村会議員、飽海郡耕地整理組合評議員など多くの役職に就き、排水溝の改良、耕地整理、南遊佐村(現・酒田市)地内の蓮沼の干拓開田、本楯村信用組合の農業倉庫建設、本楯駅設置などに業績を残している。

明治11年勤成学校(現・本楯小学校)新築世話掛となっているが、隣村の門田村の児童の通学路用に所有田を寄付している。また、当地の県社大物忌神社の宝刀を国宝に指定するよう文部省に陳情、大正11年にそれが実現するや、その愛刀会を創立。また、古くから同神社に伝わる神楽の保存にも力を入れている。

四方吉はその功により多くの賞を受け、昭和4年に新海竹太郎作の銅像が、有志によって地元の悦岩寺に建立、昭和53年に再建された。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

鈴木 四方吉 (すずき・よもきち)

嘉永6年鈴木仁助の長男として新田目村に生まれる。農業。地域の発展に貢献。温和で人情が厚かったことから家に客が絶えなかったという。趣味が広く、特に絵をよくし、神楽用の膜に描いた絵が残っており、生花では池坊の師匠もしている。刀剣類や書画なども収集していたが、人から褒められるとその品を贈呈したりしていたという。着る物、食べ物に気を使い、仕立て屋で作った粋な着物を身に付け、健康に良いものを自分で料理し、粥を自分用の小なべで煮るほどであった。昭和18年91歳で亡くなった。

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