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郷土の先人・先覚168 水害解消させ村を救う

梅津春宗(明和4-天保14年)

最上川の川南に位置する酒田市広野地区は、昔、ハンノキの生い茂った広大な谷地で、ハンノキ谷地と称されており、大小多くの沼が点在していた。

正徳4(1714)年に酒田の商人・越後屋九兵衛、鈴木伊右衛門が金主で、横山村(現・三川町)の茂兵衛等がこの地を開発、広野新田村を創始。寛政元(1788)年には鶴岡の商人・奥井長兵衛もハンノキ谷地70町歩を開発、奥井新田村を創始している。

幾多の先人たちがハンノキ谷地の開発を進めてきたものの、土地が低く、湿地であったので、洪水の被害が多く、それに水利の便も非常に悪かった。そのため、長雨があれば田地が没する洪水となり、逆に田植え時は雨の降るのを待たなければならず、村民の苦渋は甚だしいものがあった。

広野新田村内の上中村に住む梅津春宗は、その害を取り除こうと決意し、佐藤与八郎等12名の有力な村民に諮り、溝や水門を作り、沼を深くして水を貯える計画を立てた。

そこで、春宗等はこの地にある大沼、尾形沼、深沼の3つを深くし、その面積は2万1000余町(約7町歩)に及んでいる。

春宗はこの工事を藩に願い出ているが、一刻も早く完成させたいために、藩の許可を受ける前に工事に着手し、取り調べられ、身を隠したこともあったという。工事中も妨害や困難が生じているが、春宗は毅然とした態度を貫いている。

難工事も約4200人の人夫と3年間の年月を要して文政3(1820)年に完成、灌漑面積は150余町に及び、収穫も倍となり、戸数、人口も増加している。

五所神社境内に次のような文が彫られた小さな石碑が残されている。表に「出羽青龍頭、文政三庚申、沼開発、永代沼半次郎、水下連中」。裏には「大沼を深く掘りぬき尾形延、堤となして堰道も付」。

春宗の家は代々半次郎を名乗り、長百姓などの村役人も勤め、春宗も半次郎を襲名し、工事に関しては、村の惣代人として書類の作成なども行っている。半次郎家には、沼を前にし、五所神社を後ろ手にした春宗を描いた一幅の掛け軸があり、それには「出羽青龍堂春宗像、天保十四年行年七十七歳、沼開発人梅津半次郎、黒田権太郎(以下略)」と書かれている。春宗は私財を投げ打ち、アメ売りまでして工事資金をねん出したという。

工事の完成を喜んだ村民は、上中村に五所神社を創建、神楽を奉納し、明治32年には「梅津春宗君碑」を建立している。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

梅津 春宗 (うめづ・はるむね)

梅津家は広瀬村(現・鶴岡市羽黒町地区)より4人姉妹で酒田に移住、初代半次郎は姉の養子という。春宗は4代目に当たる。性格は碑に「為人多才芸兼智勇」とある。師匠もしており、弟子が多かった。通常は半次郎を称したが、青龍頭・青龍堂とも号している。酒を好み、瓢箪を腰に下げて、工事中の谷地の葦の陰で飲んでいることもあったという。天保14年に77歳で死去していることから、生年は明和4年と推定される。

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