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郷土の先人・先覚176 社会事業に身を挺しき

佐藤霊山(嘉永4-昭和2年)

佐藤霊山氏の写真

佐藤霊山は嘉永4(1851)年、鶴岡市上肴町、佐藤惣兵エの四男として誕生し、8歳にして浄土宗・常念寺で出家した。長じて上京し、江戸・小石川の伝通院で修行、折からの明治維新の激動の中で青春を送った。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮に逆らい、一時は学業をなげうつほどであったが、やがて信仰の世界に入り、称名念仏は1万遍におよぶほどであった。

明治8年、鶴岡に帰り、鶴岡山・常念寺第二十世住職となり、弘化3年炎上した伽藍の復旧に努めた。

師の宗教家としての面目は数々の社会事業にある。仏教でいう利他行である。明治22年各宗寺院とはかって忠愛小学校を大督寺に創り、貧困家庭の児童救済のために学用品、雨具などを用意し、昼食を給した。我が国給食の発祥である。その資金として有志より寄付を仰ぎ、更に各宗協同の行乞(こうきつ)で浄財を受けた。行乞は毎月1日、10日、15日、25日の4回、夏冬を問わず行われ、師は一日も欠席しなかった。

冬の朝、師がある寺を訪れ、持ち前の大声で行乞の勧誘をする。毎度のことでその寺の住職はいささか気がすすまないのだが、出ない訳にもいかない。渋々同行するといったことがあったという。大声といえば常念寺の山門の辺りで、寺内にいる弟子たちに用を言いつける。山門から玄関までざっと100メートルはあるのだから大音声に違いない。

師は行乞ですっかり町の有名人になった。師は個性的であったし、社交性に富んだ人であった。大正11年4月29日の「日刊荘内」の記事に「今田水産翁、酒井勝貫氏、佐藤霊山氏は共に鶴岡の三名物男として名高い」とあるほどであった。

忠愛小学校明治33年大督寺の焼失で止む無く廃校になったが、新たに各宗協同忠愛協会の手によって行乞が続けられた。大正8年には1年で655円給与されている。

師の主導する社会事業はさらに広まった。明治37年には仏教各宗奉公義会が創られ、日露戦争に従軍した軍人家族の慰問や戦死者の法要を営んだ。大正元年には明治天皇の崩御による恩赦令の結果、多くの免囚が社会に生まれたが、その保護のために各宗慈済会が組織され、毎月2回行乞が行われた。

師の経歴を見て驚くことは、毎年のように数々の個人的献金を続けていることである。特に多いのが各地の災害に対してである。関東大震災にあたっては3度に渡って献金している。そして目が不自由な方への教育をはじめ、各種の教育活動に対しても献金を行っている。

更に当時の世相を反映した愛国婦人会とか、軍隊慰問とか、従軍家族に対する献金である。経歴の大部分はこの献金とそれに対する公の表彰に費やされている。大正13年の東宮殿下御成婚に際し、師の社会事業尽力に対して御紋章銀盃と金200円を下賜された。

師は年と共に慈愛の人となり、法事で頂戴したまんじゅうをいつも懐に入れて、出会う子供たちに与えていた。昭和2年9月2日、77歳で亡くなった。

(筆者・渡辺 成就 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 霊山 (さとう・れいざん)

浄土宗僧侶。鶴岡山・常念寺第二十世住職。焼亡して荒廃していた寺門を復旧、明治22年各宗寺院と共に忠愛小学校を創立、貧困家庭の児童に給食を給する。我が国給食の発祥。また、免囚保護などの社会事業に尽力。大正11年県知事表彰、大正13年宮内省より表彰された。昭和2年9月2日、77歳で亡くなった。

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