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郷土の先人・先覚180 剣道興隆に大きく貢献

宮村利貞(弘化3-大正15年)

宮村利貞氏の写真

旧制荘内中学の剣道部の礎を築き、また庄内地方の剣道興隆に貢献した。

弘化3(1846)年11月8日、当時の稲生村番田(現・鶴岡市稲生一丁目)の代々医者をしていた家に生まれた。先祖は漢方医として、静岡から酒井家について鶴岡へ来たもの、と伝えられている。

小さいころから剣道が好きで、庄内藩士・大渕竜之助に剣道を学び、21歳のとき江戸に出て、江戸屈指の剣術家・神道無念流斎藤弥九郎に入門した。

約2年間、寝食を忘れて剣術に打ち込み、明治元年に免状を受けたが、戊辰戦争で帰郷。庄内二番隊に所属して新庄、秋田に出陣した。このとき官軍が持っていった小隊長の首を取り戻そうと1人で官軍に乗り込み、取り返してきたという武勇伝もある。

役後、一時上京して人力車の金具製造の技能を身に付け、帰郷して従業員20数人の小さい町工場を創設、金具の製造をはじめた。ひところははやったらしいが、事業はなかなか思うように進まず、明治18年山形県巡査になった。同28年に荘内中学剣道部の指導者に指名され、翌年正式に嘱託となった。

そのころの地元の剣道界は、明治維新とともに剣道の衰微を心配した旧藩士の1人が町道場の講武所を建てて、子弟を指導。しかし、剣道を習う人は年々減少した。

明治26年1月に同好有志が寄付を募って旧城二ノ丸堀の埋め立て池(現・馬場町)に町道場、講武館が建てられた。それが効果を上げてようやく人気を取り戻し、荘内中学の剣道部も盛り上がってきた。

『県立鶴岡南高校八十年史』によると、初めて寒稽古が行われたのは同34年。「寒気の最も厳しい一月に、二十日間も鍛えた稽古は、部員の腕を上達させると同時に、精神の鍛錬にも貢献するところが多い」と記録している。

また、明治35年以降の対戦記録もあるが、強かった同部の戦績を誇り、宮村は30有余年間指導し、多数の門下生を輩出、大日本武徳会から教士の号を受けている。鶴岡が生んだ剣道界の重鎮・佐藤忠三範士も指導を受けた1人といわれている。

大正3年夏に荘内中学修道館で行われた謝恩の式で門下生の有志が、宮村に謝恩状と銀杯1個、金120円を贈っている。

荘内中学から鶴岡工業学校(現・鶴岡工業高等学校)に移り剣道を指導しているが、病に倒れ、大正15年5月31日に81歳で死去した。

子孫に残っている記録によると「父(利貞)は功名手柄を語ることがないので定かでないが、聞き伝えでは巡査のころ、貧しい人、哀れな人に金品を送り、容疑者を護送の際も彼らを憎むことなく、よく労わった」とある。人柄が偲ばれ、また多くの人に慕われた。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

宮村利貞 (みやむら・としさだ)

剣道家。幼名・伸来(のぶき)。小さい頃から剣道を学ぶ。江戸で神道無念流の免状を得て、慶応4(1868)年戊辰戦争がはじまると新庄、秋田方面へ参戦した。明治19年山形県巡査を拝命、同28年に荘内中学校剣道部創設とともに教師として指導に当たった。30余年に渡って多くの門下生を育成し、他方の剣道界発展に努めた。名前は「りてい」とも呼ばれた。

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