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郷土の先人・先覚181 刑場に消えた3烈士の1人

佐藤桃太郎(嘉永元-明治2年)

酒田市の妙法寺(相生町一丁目)境内の小公園中央に、「三烈士の碑」と彫られた大きな石碑がある。これは己の節操を貫き、義に殉じて処刑された庄内出身の江戸旗本・佐藤桃太郎、同じく旗本・天野豊三郎、岡崎藩士・関口有之助を称えた碑である。

この稿では、庄内出身の佐藤桃太郎を中心にして述べてみる。

桃太郎は天保お国替え阻止の運動で活躍した佐藤藤佐の曾孫に当たり、祖父は江戸詰めの庄内藩医・佐藤然僕(ねんぼく)、その長男・信継の長子である。名を喜惣司と称し、のち桃太郎と改名。幕臣として旗本格に列して、陸軍奉行支配評定所の書物御用役を務めている。

慶応4(1868)年戦火は熾烈を極め、桃太郎は伊庭八郎の軍に加わり、箱根で戦ったがついに敗れ、のち榎本武揚の軍に参じて、関口有之助、天野豊三郎らと各地を転戦した。戦利あらず敗退、庄内藩に活路を求めた。だが、そのころにはすでに庄内藩は降伏していた。致し方なく八ツ興屋村(現・鶴岡市)の寺・林高院に潜伏していたが、その間、同村の三浦半三郎は酒井家から身の回りの世話係を命じられ、親身も及ばぬほど面倒をみている。

その間、何度となく幸福を勧められ、同志6人は江戸に帰った。残ったのは桃太郎ら3人となり、捕えられて酒田に送られ、米屋町の佐藤九郎右衛門宅に身柄を預けられた。取り調べに際しては、自説を曲げず、今度は松山藩に送られて明治2(1869)年4月21日、若き生命は刑場の露へと消えていった。『飽海郡誌』には桃太郎について次のように記されている。

「…人となり気質あり、幕府解体の際同志と所々に転戦し逃れて庄内に来り、田川郡八ツ興屋村農半三郎の許に投ぜしが、明治二年酒田民政局長官西岡周碩(しゅせき)と順逆を激論し抗弁屈せず、為に松山藩に幽せられ、同年4月21日同志二名と共に酒田に於て斬られ時に年十九、妙法寺に葬る」。

この時の刑場は、旧酒田西高校の建っていた場所である。善道寺境内に"首切り地蔵尊"が立っているが、この地蔵尊も元は刑場内にあったといわれ、3烈士の斬首で辺りの白砂は鮮血で染まったという。

この処刑を知った八ツ興屋の半三郎らは、夜陰に乗じて妙法寺境内に忍び込み、墓地を掘り起こして首を盗み、村に持ち帰って林高院に手厚く葬っている。

また処刑前に宿とした九郎右衛門は、林昌寺境内に髭髪(しゅはつ)碑(遺髪を埋めた碑)を建立して、3烈士の御霊を弔っている。碑には"桃嶽院殿誠忠義心居士"の桃太郎の戒名と、関口、天野の戒名も並んでいる。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 桃太郎 (さとう・ももたろう)

桃太郎は通称で、本名は喜惣司。幕臣として旗本格。陸軍奉行・支配評定所の書物御用役。幕府解体のとき箱根などに転戦。敗れて庄内に脱出し、八ツ興屋(現・鶴岡市)に逃れてきた。しかし、捕えられて酒田に身柄を預けられ、明治2年4月21日、酒田で処刑された。19歳だった。一説には22歳ともいわれている。

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