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郷土の先人・先覚187 村上の即身仏 庄内と縁深く

近藤仏海(文政11-明治36年)

庄内はミイラ(即身仏)が多い所と言われている。仏海もミイラになった人で、隣県の新潟県にあるが、庄内と縁の深い人である。特に仏海は今でも庄内の各地に頌徳碑が20基以上残っているといわれ、多くの人の信仰を集めている。

文政11(1828)年に新潟県岩船郡の村上に生まれた。幼名は庄次郎といった。朝日村に関する書物でも紹介されているが、幼いころ仏道入門を志したものの、両親に反対され、実現しなかった。

18歳のとき、密かに家を出、朝日村大網の注連寺の第71世住職、快音老子について出家、近くの東岩本にある末寺、本明寺の剛海上人について修行を重ねた。

35歳のころから穀類を断ち、草木の実を食べて修行する木食行(もくじきぎょう)に入り、2年後には湯殿山の仙人沢でも行を積んだ。

慶応3(1867)年に本明寺の住職、明治26年には注連寺の住職になったが、その間、庄内、村上両地域で布教活動。全国各地の霊場を回り、伊豆下田の天城山で寒行座禅、また、酒田の海向寺でも修行したことがある。

特に湯殿山ではたいへんな修行だったようだ。燃えている1束の線香を手に持って川に飛び込む修行は、気を失って流されたこともあったという。危うく助けられたことが一度や二度では留まらなかったといわれている。

自分の手に油を注ぎ、それに燈芯を入れて点火する修行もある。このために左手が焼けて石のように固まった、という厳しい修行もあったという。

また、霊感の持ち主で、衣の袖の下から常に龍神が顔を出していたといわれ、さらに他人と話す時は顔を合わせることはなかった。

布教活動で得た祈祷料やお布施を元に観音寺、本明寺などの寺院の再興に努める傍ら、生活が苦しい人々の救済に多くの金銭、穀物を寄付するなど社会福祉事業にも尽くし、新潟県知事から数回、感謝状や賞状を受けている。弟子たちの教育にも熱心で、弟子の人数は80人余にも達した。

日ごろの生活は極めて質素。得たお金は神社仏閣に寄付、あるいは社会福祉事業、子弟教育に用いられ、類焼で全焼した注連寺も再建した。

穀類を断って行に励むこと40余年。毎日、相当量の沢の水を飲み、それがまた一つの健康法ともいわれ、明治36年3月20日、海向寺の青麻永昌住職に「死後30年経ったら発掘してミイラにするように」と遺言して、故郷村上の観音寺で亡くなった。76歳だった。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

近藤仏海 (こんどう・ぶっかい)

僧侶。新潟県の村上で、文政11年5月に生まれた。弘化3(1845)年に朝日村大網の注連寺の住職快音について出家、東岩本の剛海について修行した。慶応3年に本明寺住職になり、庄内、村上で布教活動。生活に恵まれない人々の救済など社会福祉事業にも貢献した。その後、注連寺の住職を務めた。ミイラにしてほしいと遺言して明治36年3月20日に故郷・村上の観音寺で亡くなった。

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