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郷土の先人・先覚190 若くして政治活動

松本謙吉(安政2-大正12年)

本楯村(現・酒田市)の松本謙吉は、自由民権運動で大いに活躍した松本清治と比べて知名度は低いと考えられるが、明治31年57歳で亡くなった清治よりも、謙吉の政治活動は長く、地方政治に果たした功績も決して少なくなかった。

熊手島村(現・酒田市)の堀善蔵の二男として生まれた清治は、新田目村(現・酒田市)の藤十郎家の姉娘登志に養嗣子として入り、一方、熊野田村(現・酒田市)の田中元介の五男として生まれた謙吉は、妹娘の鼎(かなえ)に養嗣子として入っている。

清治が若くして隠居し、上野沢に去ったことから、謙吉が明治16年家督を継いでいる。松本藤十郎家は江戸期2人扶持と御蔵米2俵を扶持され、当時の長者番付にも前頭の位置に出る富農であった。

謙吉は若くして自由民権運動に入り、蕨岡の鳥海時雨郎らと共に、森藤右衛門のあとを継いで活躍している。森が発行し、政府への言論戦を展開した両羽新報を、明治15年鳥海、謙吉らが荘内新報と題して自由民権を主張し、明治23年の第1回衆議院議員選挙の時には、謙吉らは自由党員のリーダーとして活発に働いている。

明治26年に自由党山形県支部が創設されると、謙吉はその常議員の1人となっている。明治31年自由と進歩の両党が合体して憲政党が結成されると、山形県でも憲政党県支部が発足。その常議員に飽海郡を代表して、旧進歩党からは村上恵之助、小野寺順太、旧自由党からは今田三郎と謙吉がなっている。明治36年の第8回衆議院議員選挙においても、政友会の駒林広運を、謙吉は佐藤伝吉、鳥海哲四郎らと共に応援活動に尽力し、第2位で当選させている。

謙吉自身も明治20年6月の県議会議員補欠選挙に当選、同24年府県制実施により資格が消滅するまで3回当選、県会議員として活躍している。県会議員の富力調によると、当時の松本家の地価金は、3295円余で、富農の地位を確保していた。

謙吉は地元においても、明治11年に20代前半で本楯村保正、井皿堰用水惣代人となり、明治21年には日向川区域惣代人、新田目堰掛惣代人などで活躍。明治29年から本楯村村長となり、大正5年にやめるまでの21年という長い間、第2代村長として村政の発展に努めている。また、この地方への鉄道敷設運動でも野附友三郎・渡辺九十九らと積極的に推し進めている。

(筆者・大沢 力 氏/1990年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

松本 謙吉 (まつもと・けんきち)

安政2年3月生まれ。自由民権運動家。勤成学校通学区議員、飽海郡四五ケ村連合村会議員、県会議員、本楯村村長など。交際が広く、松本十郎、菅井惣左衛門らと交わり、没後建てられた墓碑銘は、明治から大正にかけての政友会の大物・岡崎邦輔の書いたもの。松本家は文化文政ころ、上野沢村舞台(現・遊佐町)を開発したほどの富農であったが、清治、謙吉の政治活動により家産を失ったといわれる。大正12年3月17日、69歳で亡くなった。

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