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郷土の先人・先覚192 伝統工芸の竹塗り創案

阿部竹翁(天保10-大正元年)

阿部竹翁氏の写真

鶴岡を代表する伝統工芸品の一つである庄内の竹塗り。本物そっくりの模様と竹の清楚な持ち味を生かした漆器は人気を呼んでいるが、この創案者が阿部竹翁である。

 

本名・岡本久米吉。江戸・神田の生まれ。元治元(1864)年、25歳で鎧(よろい)、兜(かぶと)など武具の漆(うるし)塗り職人として、荘内藩に召し抱えられた。これが縁となり、鶴岡に住み、旧桧物町(現・三光町周辺)の阿部八右エ門宅へ養子に入った。

 

当時は庄内でも漆の栽培が盛んだったようだ。鶴岡市史によると、鶴岡の漆工業の沿革は明らかではないが、旧藩時代に塗り師は藩主から若干の給与を受けながら、武具を塗っていた職人と、一般の塗り師がいた。前者は営利を主にしないので、技術を研究し、漆を厚く塗り重ねて模様を彫り込んだ堆朱(ついしゅ)とか、金、銀粉を使ったまき絵などを作った。一般の塗り師も伝統的技法を守り華美を嫌って、務めて検討な漆器を製作し、幕末には名工と呼ばれる人物も出た。

 

一方、藩も山間山麓の村々に漆の植樹を奨励した。実からはろうを取り、木からは塗料になる漆液を採取した。

 

荘内藩は必要な量の漆液を確保し、貯蔵しておくために、市内の旧元曲師町(現・本町三丁目周辺)に「漆役所」を置いた、とされている。しかし、庄内の漆生産は余り振るわず、庄内地方で採取する量だけでは間に合わないために、最上や、越後地方など他の地方から移入するのも少なくなかったようである。

 

刀や槍などの漆塗りをしていた竹翁は、庄内の竹塗りの創作に成功した。竹塗りは江戸の鞘(さや)塗り師・橋本市蔵が、漆塗りで竹に模した細工を作ったのが最初といわれ、仕込み杖の塗装に利用されていたらしいが、竹翁も苦心の末開発した。

 

ちょうどそのころ明治維新で、廃刀令が出され、刀剣など武具の塗装がなくなって大きな打撃を受けた塗り師たちにとって竹塗りの出現は、救いの神であった。茶筒や、盆、膳、花器など日常生活用具の塗装に活用する竹塗りに活路を求める職人が多かった。

 

その技法は独特の工程で40段階にも及ぶとされ、作り始めてから完成するまで最低4、5カ月。中には1年も必要とする製品もあるといわれている。漆の乾燥具合が作品の良し悪しの決め手になるので、吟味に吟味を重ね、一工程一工程慎重に製作するので、出来上がるまで長い月日がかかっている。

 

竹塗りの技法は竹翁から門人たちに継承され、八幡玉清ら優れた名工を輩出した。秘法は今日まで連綿として続き、竹徳祐の枯淡と優美さを表現した優れた作品は、竹製品と見間違うような本物そっくり。製品は高く評価され、名を高め、輸出もされた。

 

竹翁は74歳、鶴岡で亡くなった。門人たちが大正3年に菩提寺に碑を建て、竹翁の功績を称えている。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

阿部竹翁(あべ・ちくおう)

庄内竹塗りの創始者。本名・岡本久米吉。天保10(1839)年3月15日、江戸の神田生まれ。荘内藩の武具漆塗職人となり、鶴岡へ。阿部八右エ門の養子になって刀槍の漆塗りをしていた。庄内の竹塗りを開発し生活用具の漆器に取り入れ、多くの優れた作品を残し、八幡玉清ら名工を育てた。後に輸出するまでに発展した鶴岡の代表的美術工芸品になった。大正元年10月13日、74歳で亡くなった。

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