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郷土の先人・先覚198 理財に長けた酒田の実業家

関伊右衛門(明治元-昭和3年)

関伊右衛門氏の写真

酒田町中町の関伊右衛門家は、古くから荒物類を手広く取り扱ってきた大商人の1人であった。関家7代目の伊右衛門は、幼名を伊太郎と称し、家業の荒物商の発展に努めただけでなく、酒田の実業界でも大いに活躍した。また、大正2年から昭和3年までの15年間、酒田町会議員の職に当たった。

関家に残る文政8年の「歳々改帳」によると、関伊右衛門家は寛政10(1798)年8月に、酒田の豪商・関太郎兵衛家より分家となり、下中町に表幅3間2尺余、裏行17間3尺の屋敷を買い求め、その後屋敷を買い足している。

文化7(1810)年の売立改によると、小売りが404両、商人売りが56両と3歩の合計460両と3歩に達している。明治24年では小売りが5000円余、商人売りが1万5000円余で、合計が2万713円余となっている。

伊太郎活躍時の明治36年の丸関商店の取り扱い品目は、各種の紙類をはじめとして、茶、石炭、石油、附木、鉛筆、白墨、釘類などの金物など多岐に渡り、販売先も飽海郡役所、酒田町役場、西荒瀬村役場などの村々の役場、酒田病院、酒田小学校などの多くの学校の他、多くの機関に及んでいる。

明治36年伊太郎は、酒田船場町に酒田商業合資会社を設立、北海道と多くの物資の交流を行い、その社長となっている。後に大実業家・中村太助と共同でその経営に当たっている。大正期には三菱鉱業の代理店となり、石炭の販売に力を入れた。

明治39年、中村や北原道治郎などによって酒田新町に設立された酒田木材株式会社の専務となり、酒田セメント工業の経営にも参加。事業拡大のため樺太にも渡っている。

一方、同25年伊太郎は北光社を創始し、当地方で初めてマッチの製造販売を行ったと伝えられている。関家にマッチ製造の記録は残っていないが、現在同家に文化と弘化の年号の入っている亀ケ崎城塩しょう御土蔵のしょう札2枚が保存されている。亀ケ崎城を知る上で貴重なものである。

同39年、中村太助らが中心となった秋田県小滝発電所より酒田に電力を供給する計画と、鶴岡の電気会社からの供給を進めようとする派が激しく対立したが、伊太郎は中村太助側の先頭に立って活躍。関係官庁への陳情、小滝側との交渉、電力供給計画、経過などが関家に「小滝事業書類」として残されている。結局、電気事業は酒田町営となった。

(筆者・須藤 良弘 氏/1990年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

関 伊右衛門(せき・いえもん)

明治元年3月3日酒田町下中町で生まれる。荒物商、町会議員、実業家。明治12年に父・伊右衛門が若くして死去したため、叔父が後見人となる。そのためか外での活躍が大きかったといわれている。子孫によると、理財に長けた人で、ある実業家から味方につけば非常に心強いが、敵に回せばこんなうるさい人はないと評されたという。航路標識用弁方も務め、酒田港の改築運動にも尽力。風邪から肺炎となり、昭和3年3月、61歳で亡くなった。

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