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郷土の先人・先覚211 「加茂隧道」の開削に努力

秋野庸彦(天保12-大正9年)

秋野庸彦氏の写真

秋野庸彦は私の身内である。ごく幼いころ随分と可愛がられたそうだが鮮明な記憶はない。しかし、大きい体・丸坊主で白髪で多少前かがみにしていた温和な好々爺だったというおぼろげな記憶だけが残っている。

庸彦の足跡は『庄内人名辞典』をはじめ、様々なものに載っている。私はその足跡を抜きにして、あまり知られていない加茂坂隧道開削問題とその成功に触れておきたい。

加茂湊は少なくとも江戸初期から全期を通して、酒田港の避難港の性格を帯びた一応商港の形態を整えた商いの湊であった。明治期に入って、物資を輸送する道路の改修は、古い商いの湊から脱皮する加茂の大事業であった。

庸彦は大正3年、病に倒れてから同4年5月より死去の約1カ月まで、医業者らしく「病状録」と「病中日誌」を書き続けている。和紙を紙よりでとじた帳面に毛筆で記したものが20冊にも及んでいた。その病中日誌の大正7年9月17日に思い出の記として、

「三島県令ト商イ湊加茂村ノ行キ先ノ事ニ就キテ大イニ談ス。ソノ節ノ主ナル談合ハ山陰ノ鶴岡・大山ニ通ズル細キ山路ノ事ナリ。県令サカンニ論発ス。サトサレル事多カリキ」

と書いている。

三島県令は土木県令で、明治11年8月ごろから湯野浜の与兵衛旅館に余程長く静養していた。詳細は不明にしても、加茂村の有力メンバーである庸彦をはじめ、問屋、商人衆の連中の面々が挨拶に出かけた際の事だろうと思う。岩本成雄著の『荘内経済年表』に明治11年の欄に「三島通庸県令加茂有志の請願をいれ加茂坂隧道を計画す」とある。これは三島県令や庸彦らとの湯野浜与兵衛旅館での会談以後の事だろう。今考えれば加茂坂隧道開削は加茂湊が近代化して行くのは当然不可欠な事であるが、計画実施までの経路は決して平坦なものではなかった。隧道ができれば馬車で多量に物資を輸送することが可能。それでは米1俵、塩1俵背負ってそのわずかの賃金で生計を立てていた背負子(しょいこ)大勢の労働者の生活に不安がのしかかってくる。背負子の某家の当時の小さな帳簿の行間に拙い文字で

「まんぶ(隧道)とおる・くるま(車)かへず・うま(馬)かへず・ばしゃ(馬車)にあとおしいらず」

と書いてあった。帳簿をつけている間、ふと将来の生活に大きな不安を感じ、何気なしに書きなぐったものであろう。その不安が丁持衆へおよび隧道開削反対運動に燃え上がった。口説によれば、まさに現在の罷業(ストライキ)に近い反対運動であったらしい。その推進派の頭目は地主問屋・商人衆を背景とした秋野庸彦であり、反対派の頭目は江戸帰りの小松某であった。

この混乱にさすがの三島県令も当惑し、開削に着手したのは彼が福島県令に赴任以後、明治17年折田平内県令時代で、完成は同19年5月11日であった。庸彦は「加茂坂隧道開通式の折に」と前書して、「万代も何丈かひ絶すかさゆむ堅しは切て作る穴路は」と詠んでいる。

庸彦は大正9年3月9日午後2時に大山の住居で、肉親・門人に囲まれながら波乱の生涯を80歳で閉じている。

(筆者・秋野庸太郎 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

秋野 庸彦 (あきの・つねひこ)

加茂の素封家・秋野茂右衛門の二男。安政3年、16歳のとき国学者・鈴木重胤に入門。随従して江戸へ出て江尻簀山らに漢学、林洞海に医術、竹中鉄之助に柔術、伊庭軍兵衛に剣法を修業。明治維新の折に藩に建白書の提出を画策。明治以後は大山に居住し医業を行った。自由民権運動に共鳴、加茂坂隧道、加茂湯野浜間の道路改修の実現に努力。郡会議員、同議長、県会議員を務めた。重胤の書著『日本書記伝』などを校訂。大正9年80歳で亡くなった。

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