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郷土の先人・先覚22

今間 壮太郎

今間壮太郎氏の写真

今間さんが77歳で他界されてから早くも10年目を迎えた。

今間さんは幼少のころから、かなづち、ノミ、クギ、巻尺、ノートを身(み)から離すことがなく“物の創造”と“黙想”の毎日であったという。

明治42年、わずか10歳、はじめて完成した発明品は村の小川にクルクル回る米つき水車の模型、次いで完成したのはベルト掛けの小さな精米機であった。

12歳のときの夢は、父が経営していた織物工場の機械にまさる“織機”の開発であった。材料に窮した今間少年は、自宅の板戸2枚をひそかにこわして、しこたま怒られたというエピソードもあった。

天才ぶりを見込まれた今間少年は、高等小学校入学わずか10日目、特別に鶴岡染織学校(県立鶴岡工業学校の前身)に引き抜かれた。在学中に列車の模型、スチームエンジンなど続々創意の作品を完成。

16歳、染織学校(第1回)卒業の春、科学と機械知識を求めて桐生市の機械製作所に勤務、撚糸機械の製作に専念した。18歳の春、東京工手学校(現・工学院大学)機械科に入学、22歳卒業後、鶴岡市宝町に今間鉄工所を設立、従業員8人を雇い“頭脳と汗”の戦いが始まった。

25歳、大豆粕自動砕細機(全国比較審査第1位官報発表)。そして、同市泉町に今間製作所を開設、その後、人力用唐箕(とうみ)今間式米選機、人力用もみすり機と続々開発。47歳、日本農機具工業協同組合・脱穀籾摺部会東北地区代表に選任。52歳、今間製作所取締役社長に就任、無排塵脱穀機復胴型、投げ込み製縄機等を開発。70歳を迎えてついに今間式コンバイン、コンマハーベスターの画期的開発に成功、全国各地から注文が殺到した。

この間、農業技術の発達に寄与した事跡によって紫綬褒章、次いで勲四等旭日小綬章の栄誉に輝いた。

農業機械の画期的な改良開発によって我が国農業機械化と農業近代化の推進に偉大な功績を残した所以であった。

昭和15年、40歳で鶴岡市議会議員に初当選以来5期22年間議会人として活躍、鶴岡市表彰条例による市政功労者として表彰を受けた。さらに31年、56歳で鶴岡商工会議所会頭に推挙され、実に6期16年の長きにわたり、常に卓越した見識をもって指導的役割をつとめ、多年の懸案であった産業会館の建設を実現、施設と商工業界の振興に寄与された功績も大きかった。

今間さんの生涯は優れた天性と才能に加えて誠実温厚、そして熱烈な郷土愛をもって貫かれたものであった。

(筆者・小野寺 清 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

今間壮太郎 (こんま・そうたろう)

“機械に生きる男”というニックネームの持ち主だけに、その生涯は農機具の発明工夫と改善に徹し、日本農業機械化のため不滅の功績を残した。明治33年1月15日鶴岡市七日町(現・本町二丁目)の酒造業(銘柄“鶴泉”)今間藤治郎さんの長男として生まれた。父もその血をひいて数理に長じた。今間さんは小学校6年生のとき、恩師から「壮太郎君は数学の天才」とほめたたえられた。今間さんの発明家としての素質は、この系譜のなかに潜んでいたように思う。10歳のとき水車、13歳で織機を発明した少年は世人を驚かせた。

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