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郷土の先人・先覚220 酒田での西洋医学の先駆け

伊東清基(天保11-明治28年)

伊東清基氏の写真

明治28年6月といえば、ちょうど1年前に庄内は未曽有の大震火災に遭い、大きな打撃を受け、まだ爪痕が残っていたときというのに、さらに恐るべきコレラが酒田港を襲った。伝染病におかされるのは港町の宿命であった。

このとき本町六丁目で内科医を開業していた伊東清基は、避病院(明治12年これら流行に際し大浜に設立された)の院長となり、身を挺して治療や防疫に当たった。しかし、医学の進んでいない当時のこととはいえ、これらの猛威の前にその力はあまちにも弱かった。死者があまりにも多いため、馬車で千日堂前の山に運んで埋めた。山の入口に大きなわら人形を立てて目印とし、誰言うとなくコレラ山と呼んで怖れた。

清基は連日の奮闘で疲労困憊の末、とうとう自分もコレラに感染し、明治28年10月3日、56歳でこの世を去った。これを聞いた町民は慈父を失ったように悲しみ、海晏寺で行われた葬儀には、富豪本間家当主の葬儀をしのぐ会葬者であふれたという。

清基は天保11年仙台藩士・諏訪主水の三男として生まれ、16歳のとき江戸に出て蘭学を修め、その後伊東玄朴の高弟・伊東玄斎のもとで医術を学んだ。玄朴の養子となり、明治初年、玄朴が酒田で開業するのに伴って移住し、間もなく師の跡を継いで医療を業とした。当時、時岡淳徳、本間意仙をはじめとする酒田町医はほとんど漢方薬が主流であり、おそらく西洋医学を本格的に学んだのは清基が最初であろう。

彼は酒田における西洋医の先駆けと言え、西洋医学を酒田に普及することを自分の使命とし、弟子の育成に努めるとともに明治12年に飽海郡開業医公会幹事長になったのをはじめ、十全堂社長、大日本衛生会飽海支会長の要職にあって医学向上と衛生思想の徹底に努力した。

同16年旧本町七丁目に医会所十全堂が再建されたのは、清基の力が大きかったといわれる。柳小路の土管工事は彼が多年、世間から批判されながら伝染病予防のために、ぜひ作るべきだと主張したことによる。また飽海支会では町当局や警察と協力し、中央から著名な医学者をよんで毎年講演会を開催し、医学や衛生思想の普及に努めているが、これも清基の指導によるところが大きかった。彼の没後34年からは会報を発行しており、志賀潔、北里柴三郎らが酒田に来て講演していることが掲載されている。大山町栗本家の養子となった栗本庸勝は内務省技師としてたびたび酒田を訪れて、上下水道の実施を講演で説き、昭和5年上水道の完成を見ている。

(筆者・田村寛三 氏/1990年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊東清基(いとう・せいき)

医師。仙台藩士・諏訪主水の三男。16歳の時に江戸に出て蘭学を修め、のち伊東朴斎のもとで医術を学び、明治初年、酒田で医業を開く。西洋医学の普及を図り、医会所十全堂改築のため尽力した。明治28年、酒田にコレラが広がったとき、身を挺して治療、防疫に努めたが、自らも感染、同年10月3日に死亡した。葬儀の際の会葬者は、本間家当主を上回ったという。

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