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郷土の先人・先覚229 視覚障害者教育の先覚者

橘周存(元治元-昭和6年)

酒田町出身の橘周存は、早くからこの地方の視覚障害者教育と点字普及に多大な功績を残した1人である。

日本の視覚障害者教育は、明治4年、政府の工学頭小尾庸三が太政官に「盲学校並に聾学校の設立」を建白。同9年に熊谷実弥が東京に私学の視覚障害者学校を開業、同11年には京都に盲唖院が設立され、こうした動きがわが国初期の視覚障害者教育運動とされている。

山形県では、明治36年になって私立の米沢盲学校、大正2年には山形に私立の山形盲学校が設立された。明治44年の鍼灸術按摩業試験制度の廃止で、視覚障害者教育の必要から、庄内ではようやく大正4年に有志によって「荘内盲人教育会趣意書」が出され、同5年鶴岡に庄内盲人教育会を設立、盲人教育所が開設されている。

橘周存は4歳の時に失明し、医師・時岡淳徳に医術と鍼・按摩術を学んでいる。師の淳徳は遊佐出身といわれ、江戸で酒田出身の伊藤鳳山より医学・儒学を学び、安政2年酒田に帰って医を開業、種痘(天然痘の予防接種)の普及にも功績があった。

周存は明治19年に鍼灸按摩業を始めているが、この地方の視覚障害者教育の遅れを嘆き、私財を投じて視覚障害者のために家塾を開いている。本家の橘家から明治37年9月に酒田上台町十七番地に分家し、そこが家塾となるが、それ以前にも視覚障害者教育に努めている。明治44年の試験制度の改正で合格者のみ営業許可となった。周存は大正元年の第一回鍼術灸術按摩試験で、山形県より試験委員に任命され、その手当は7円であった。委員としての活躍は同12年まで続き、同11年からは試験科目に治療を目的とするマッサージ術が加えられている。

「盲人学徳の向上を図り、併せて点字を普及する」ことを目的として、昭和4年飽海郡内の視覚障害者を組織して、点字読書会を酒田の光丘文庫に創設、周存はその顧問となった。酒田点字読書会は現在も活動を継続、周存の遺志を継いでいる。

点字読書会創設以前の大正14年に、周存は光丘文庫に「最新薬物学」などの点字本を寄贈、昭和2年には橘門下同窓会の名で「点字読本」などを、更に周存没後の昭和6年には、長男の孝三さんより周存遺品である点字本116冊が寄贈されている。その中には周存点訳の「自然と人生」のほかに、教行信證、真宗聖典、新約仏教聖典などとともに、初等幾何学、大日本帝国憲法、臨床診断指針、「文化と社会運動と宗教」など多彩な書が含まれ、周存の学徳の深さと、視覚障害者教育にかけた情熱が感じられる。

(筆者・須藤良弘 氏/1990年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

橘周存(たちばな・しゅうぞん)

教育者。元治元年6月14日酒田寺町雲照寺で橘了周・みさをの二男として生まれる。妻の花は吉田村伊藤儀七の長女。4男4女に恵まれ、長女のつねへは周存の門弟・佐藤藤太郎に嫁いだ。周存の門下生三十数名は周存の徳を称え、昭和4年酒田安祥寺境内に「橘周存先生寿碑」を建立。昭和6年1月10日、68歳で亡くなった。

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