国全体が大きく旋回した幕末から明治の初め、個々の人生もまた様々に変転せざるをえなかったが、松本十郎のそれは一際特異であったといえよう。
松本十郎は、庄内藩士・戸田文之助の長子として天保10(1839)年8月18日鶴岡城下新屋敷町(現・若葉町)に生まれ、幼名重松、長じて総十郎直温といったが、のちに故あって松本十郎と改めた。12歳のころから田宮流居合を修練、武技は彼のもっとも得意とするところで、剣をもって身を立てたいと考えるほどであったという。藩校の致道館には15歳のことから通い始めたというから、他の子弟に比べかなりの晩学である。こののち彼は父とともにエゾ地に赴いたり、江戸へ上って市中警備に携わり、暇を見ては幕府の昌平校に通い識見を深めた。
豪放かつ細心、加うるに才気活発な彼は、藩内でも瞬く間に頭角をあらわし、藩を代表して江戸城に詰め諸藩の士と交わった。風雲急にしていよいよ東北戊辰戦争が起こるや、機事係となって会津・仙台・盛岡など奥羽諸藩に使いし奔走した。しかし9月末にいたって庄内藩は遂に官軍の前に屈した。このとき鶴岡城の受け取りに立ち会った官軍参謀黒田清隆、そして西郷隆盛の2人は、こののちの庄内藩や十郎の運命に深く関わってくる人物だった。
その後、十郎は藩の命で京都に上ることとなったが、政府は朝敵藩の者が上洛するのを喜ばなかったので、彼は若狭酒井氏の家臣と称し、姓名も先祖の松平氏の松と総十郎の十郎をとって松本十郎と変えた。そして敗戦後の庄内藩の窮状を政府の要路や各藩の有力者に訴え、時には東京とまたもや東奔西走の日々を過ごした。
明治2年8月、十郎は黒田清隆の推薦によって北海道開拓判官を命じられた。徳川幕府を倒したばかりの明治政府の基礎は軟弱で、人材の集中もまだ十分ではなかった。このようなとき実力者黒田は、多くの俊才をその過去にこだわることなく見出し登用した。函館戦争の賊将榎本武揚然り、朝敵藩庄内の松本十郎もまた黒田と肝胆相照らす同志として抜てきをうけたのである。
十郎の任地根室はそのころまったくの未開地、開拓事業はまことに困難を極めたが、この付近の海域は漁族が豊富であり、漁場の開発を中心に事業がすすめられた。十郎は官費を少なくし、漁民の増加と漁獲の増大を図るため、開拓使の方針である官の自捌きをとらず、漁場を希望者に割り渡すなど現実的な施策をとり、官捌きを行った他の地方に比べてはるかに勝る成績をあげたという。また、明治3年7月政府が根室地区を東京府に所轄させると決定したときには、職を賭して抗議し遂に取り消させるなど、硬骨ぶりと並々ならぬ政治的能力を発揮した。
明治6年2月、黒田の懇望で十郎は開拓大判官となり、北海道の全てを任された。前任者が残した赤字の克服と官吏の綱紀を正すために、事業を一時整理して官吏の数を大削減した。それでもまったく事務を渋滞させることはなかったという。そして40数万の巨額の赤字も8年1月までに解消させるという手腕を振るった。さらに、農民への保護政策の改善、農産物の流通対策、稲作の奨励などを行い、その強硬正義の論策と簡明な施策で、初期開拓行政の基礎きずいた名判官とうたわれた。
十郎は朝6時には出勤して書類を点検し、それから「アツシ判官」の異名の通りアイヌ織の羽織をひっかけ、得意の馬を駆っては管内を巡視するのが常であった。小学校新築に自己の金千円を寄付したり、部下や市民の貧しいものに惜しみなく振る舞い、その一方、家にあっては書生1人を置くだけの質素な生活に甘んじたという。
ところが明治8年にいたり、樺太(サハリン)と千島の交換に伴い、樺太アイヌ移住問題が起こった。9年彼らの希望や生活条件を考えずに空知・夕張の炭坑労役に従事させた黒田の処置に、十郎は大いに怒って辞職を決意し、慰留のため急ぎ北海道に向かった黒田と顔も合わせずに、7月故郷鶴岡にもどってしまった。もっともこれには開拓使や政府部内に、彼の直情径行な性格に対する反感も強まっており、十郎自身が辞める機会をねらっていたようである。彼はまれにみる民政官として道民から慕われ、その清廉な為政は高い評価を受けていたが、財政立て直しの済んだ段階においては、薩摩人でかためた開拓使にとって、十郎の存在はもはや許されなかったとするのもひとつの歴史的見方であろう。ともあれ十郎は正五位勅任官という省の次官級の地位を弊履のごとくに捨て北海道からも黒田からも去ったのである。
郷里に帰った十郎は、自ら農夫と称し、1人土地を耕しながら悠々自適の毎日を送った、酒に親しみ、ときには郊外に出て友と語る。彼はその日常を、過去を、見聞したすべてを率直に克明に記した。それは終生続けられて大部140余巻にのぼり「空語集」と題され、北海道史にとっても貴重な史料となっているのである。
郷党の首領菅実秀に対しては、その材幹識見を称揚しつつも、互いの強烈な性格の故か、交わりを断ち、御家禄一統からは大いに敬遠されていたらしい。しかし、十郎は政治向きのことは口にせず、もっぱら漢学同好の士と文について語るのを楽しみにしていたという。 特筆すべきは私財を投じて戊辰役戦死者の招魂碑を鶴岡大督寺内に建て(現在常念寺にある)盛大な供養を行ったことである。
松本十郎は、その半生の空転と起伏、世俗の外に生きた晩年を通じ、武人としての生き方を見事に貫いて大正5年11月27日、78歳をもって没し、鶴岡安国寺に葬られた。
鶴岡市新屋敷の戸田文之助の長男として生まれ、名は戸田総十郎という。
戊辰戦争で庄内藩2番大隊幕僚として活躍。降伏後、松本十郎と改め東京で黒田清隆らの新政府要人と会い、藩の戦後につき運動。黒田清隆の推せんで北海道開拓判官として根室に勤務。漁場開拓をはじめ、北海道初の灯台を建設。庄内藩士を呼び寄せ、札幌、七重を開拓。開拓大判官となる。アイヌ人の人権を守るため、時の政府と争い、38歳で鶴岡に戻る。アイヌ人の衣服(アツシ)を着て、アイヌの人権を守ったため「アツシ判官」と呼ばれた。