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郷土の先人・先覚230 生涯を整流子にかける

池田一泰(明治24-昭和62年)

池田一泰氏の写真

実業家・池田一泰は、東洋整流子株式会社を創立、業界第1位まで成長させた人である。

一泰は飽海郡観音寺村(現・酒田市八幡地区)で、竹治・ふくの三男として生まれている。

生まれ故郷の観音寺は山形県のほぼ最北端に位置し、2236メートルの霊峰・鳥海山と、山紫水明に恵まれたところである。生家は刀匠の血筋で、10代目刀匠・池田靖光は一泰の実兄にあたり、父は鍛冶職人で伝兵衛鍛冶と呼ばれて商売をしていた。

鍛冶は主として刀剣鍛冶から転じて打刃物に変わり、当地方の刃物鍛冶としては名の通った刃物一切を製造していたが、これも刀匠の血が父親の腕の中に流れていたことだろうと、自叙伝に書いている。

長じて青年時代に燃えるような青雲の志を抱き上京。東芝の前身である芝浦製作所に勤務した。そのころは東京芝金杉浜町にあって社長が三井守之助、重役に団琢磨、岸敬之二郎など、そうそうたる人物が名を連ねていたという。

その当時の一泰はモーターや発電機の組み立て係で、深夜になるまで汗と油にまみれて働いていたという。

大正14年3月、芝浦製作所鶴見工場では3000人の従業員より4人を選抜して、東京府立工業学校適材科に通学させた。一泰もこの中に選ばれ他の会社の人たちと、機械学、電気工学、製図、工業基礎学を学んだ。これが後日の仕事の上で大変役に立ったといっている。

戦時中、東洋整流子も軍需工場として戦車や飛行機用のスタートモーターを昼夜兼行で作らされたという。

次に一泰を知るエピソードを記してみる。芝浦製作所責任者のころ、銀行から金を借りて土地を買い家を建てた。だが、無理をした借金で差し押さえがくる。家庭経済は火の車で行き詰った。そのころ、東京で医者をしていた親戚の長嶋さんという人が「高利の金は一切借りるな」と忠告、金を融通してくれたのでやっと愁眉を開いた。

昭和26年東洋整流子の創立25年記念に際し、熱海のホテルで宴を催したとき、長嶋さんの夫人を上座に据えて歓待、宴のあと2人で昔を語り合い涙したという、人情の人でもある。

一生を整流子にかけ、東洋整流子株式会社を成功させたものは努力と忍耐、それに郷土愛と温かい人情があったからであろう。昭和62年8月、96歳で亡くなった。(参考『回顧七十年』)

(筆者・荘司芳雄 氏/1990年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田一泰(いけだ・かずやす)

整流子に一生をかけ、東洋整流子株式会社を業界第1位に成長させた。飽海郡観音寺村の竹治・ふく夫妻の三男として明治24年8月に生まれる。生家は刀匠の血筋で、10代目刀匠・池田靖光は実兄。大志を抱いて上京し、東芝の前身である芝浦製作所に勤務。その後、会社から選抜され、東京府立工業学校適材科に通学、機械学、製図、工業基礎学を学んだ。東洋整流子株式会社を創立、業界第1位に成長させたが、工業学校で学んだ勉強が役に立っている。人情家でもあり、郷土愛も深かった。昭和62年8月、96歳で亡くなった。

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