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郷土の先人・先覚243 庄内の土木工事に多大な功績を残す

原英(嘉永6-明治25年)

原英氏の写真

明治2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県によって旧藩体制はなくなるが、その「どんづまり」ともいえる3年、原福松は藩兵に選抜された。藩校・致道館で句読師を勤め、後に38歳で蝦夷地の庄内藩代官となった父・半右衛門が42歳で亡くなってから6年が過ぎた、17歳のときであった。政府独自の軍事力を作り出す直前のその時代、藩兵選抜は名誉なことであったに違いない。39歳で山形県巡査を志願する英(福松から改名)の履歴書の2行目に書いてある。

福松は11歳で父を亡くした元治元年から慶応3年までの足掛け4年、藩校で漢学を習う。明治8年、藩士130人余と北海道に渡り、札幌郊外の開拓に白井組の一員として従事、10年松ケ岡開墾場で稼働。17年東田川郡役所の川堤防道路橋梁工事雇となる。仕事に心血を注ぎ研究熱心だったことは、度々の職務勉励による慰労金を受けていることからも分かる。

この間、土木施工技術を習得した。鶴岡市郷土資料館にある原案文書の中に、英が書いた数多くの設計図があり、天性の才能と努力の跡を偲ぶことができる。器用な人であった半右衛門の血を受け継いだのであろう。

英が携わった工事を締め括ったのが、鶴岡市内を流れる内川に架かる大泉橋の架け替えである。この橋は、古来人形橋といわれる木造の名橋だったが、オランダ人の設計によって石造橋となるが、その工事で旧会津藩士・吉川漸三郎とともに監督に当たった。工事を見回る長身の英が、洋服姿で写真に写っている。

こうした数多い実績を残した英が、40歳で亡くなるわずか1年前にどうして巡査への転職を志したのか。そのカギは履歴書の「山形県士族無職業戸主」にあると推測される。しかし、北海道と松ケ岡での開墾が全く欠落している。写真は明治10年、北海道開拓使大判官を務めた松本十郎に伴われて上京した時のものである。

(筆者・富樫勝司 氏/1991年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

原英(はら・はなぶさ)

土木技術者。嘉永6年、庄内藩蝦夷地代官・原半右衛門の長男として鶴岡に生まれる。幼名・福松。藩校で修業、明治3年藩兵に選ばれる。同8年札幌付近の開拓、同10年松ケ岡開墾に参加。その後、土木施工を習得し同17~24年まで赤川改修、中川堰、北楯大堰、因幡堰の水門設置、新橋や鶴岡大泉橋の架設など多くの土木工事の設計施工監督を担当。同25年に新年度の山形県巡査教習所に入所し山形県巡査となるが、同年10月7日に40歳で亡くなった。

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