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郷土の先人・先覚26

栗本 東明

栗本東明氏の写真

狂犬病の予防注射液を発見した医師として、医学界で有名。明治27年ごろ医師として赴任していた長崎県内に多発した、狂犬病に苦しむ人たちを見かねて研究を重ね、予防注射液を開発した。

東明は嘉永6(1853)年に大山の医師・栗本良意(現・鶴岡市大山三丁目)の四男として生まれた。本名・亀五郎。いまの栗本医院の出である。14歳のとき、江戸で医師をしていた長兄の節安(せつあん)をたよって江戸に出、蘭方医・伊東玄朴に医術と英語を学んだ。

栗本家は代々医家で、良意(文政4年~明治9年)は大山にコレラがまん延した安政5(1853)年ごろ、米沢で修業中の節安を呼び戻して治療に専念させ大きな効果をあげ、地域民に感謝された。

また、兄の節安(天保11年~明治43年)は大山でコレラ患者を治療後、横浜に出て西洋医学を勉強。伊東玄朴のもとで修業したのち帰郷して、大山で開業。近代的医術を習得した腕前は地域民に好評で、患者が殺到したといわれている。

東明は、江戸に出て1年もたたない慶応4(1868)年に維新の変が起こり、その年の2月いったん帰郷。明治5年再度上京して慶応義塾に入った。

そして本郷の壬申義塾でドイツ語を学び、東京大医学部に進み、明治17年、優秀な成績で卒業し、岡山県立医学校の教授になった。

その後、熊本の第五高等学校教授を歴任して、18年、長崎病院の眼科医長・内科医長に赴任。学識は豊かで、ていねいで親切な診断は評判がよかった。

ところが、明治27年ごろ、長崎県下に狂犬病がはやり、死亡者が相次いだ。狂犬病の治療法がないのでどうすることもできず、苦しみ抜いたまま死ぬしかない惨状を目の当たりにした東明は、研究に没頭。ついに狂犬病予防注射液を発見した。

この発見はわが国の医学界だけでなく、世界に誇る偉大な発見であった。東明は全世界にその名をはせた。

同31年に文部省の留学生に選ばれ、ドイツ、フランスに留学、内科の研究を重ね、2年後の帰国とともに、医学博士の学位が与えられた。また、ロシア皇帝から神聖アンチ第三等勲章が授与されるなどその活躍は目ざましかった。

このあと、本郷根津の真泉病院を経て、大森病院の院長をつとめ、医術開業試験委員にもなった。しかし、研究半ばにして大正11年、東京で亡くなった。70歳。従五位勲六等を授与。「医は仁術」の名の通りの人格者と伝えられている。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

栗本 東明 (くりもと・とうめい)

医学博士。嘉永6年10月8日、鶴岡市大山三丁目生まれ。

明治17年東京大医学部を卒業し、岡山県立医学校、熊本旧制五高教授を歴任して、長崎病院眼科医長兼内科医長として勤務。同病院に在職していた明治27年、長崎県内に狂犬病が多発し、苦しみ抜いたあげく、死ぬ人が相次いだ惨状を目にして狂犬病の予防注射液の研究につとめ、注射液を発見して世界の注目を集めた。その後、内科学専攻のためドイツ、フランスに留学。わが国56人目の医学博士。大正11年1月1日、東京で死去した。70歳。

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